32.「自己一致」とは。

❖「自己一致」とは。「善悪論(ぜんあくろん)」と「損得論(そんとくろん)」が一致する。

ご存じのように、我が国は法事国家(ほうじこっか)であり、社会は法律や規則という「善 悪の論理」、すなわち「善悪論」によって、私たち一人ひとりの言動をはじめ、あらゆるも のごとに対し、「禁止、あるいは制限」をしています。

また、地域社会や一部の人が集まる社会には、慣習(かんしゅう)や風習(ふうしゅう)と言っ た、その地域や集団での暗黙(あんもく)の「決まり」があり、その決まりを守るのは「良い」 こと、守らないのは「悪い」こと、というような「善悪の論理」があります。

特に、国で定める法律や規則は、「善悪の論理」の最(さい)たるものですが、私たちの日 常生活の中には、みんなが賛成することは「良い」とか、そうでなければ「悪い」という、 その場の「数(かず)の論理」で決める、実に適当な「規則や決まり」があります。

ところで、一般的に「良い」とか「悪い」という「善悪の論理」は、国や組織、集団な ど自分以外の「他者」が決めるものであって、すべての人が「はい、そうですね」「最(もっ と)もです」と受け入れてくれるとは限りません。
何故なら、人にはそれぞれ好みや価値観をはじめ、考え方や捉え方など「解釈の仕方」 による違いがあります。

しかし、一人ひとり誰もが納得して受け入れる時、判断基準にするのは「善悪論」では なく、自分に対する「損得(そんとく)」という論理です。
自分にとって「良いか、悪いか」を判断するより、自分にとって「損(そん)か得(とく)か」 を考える方が解かりやすく、すぐ判断がつきます。

世間には、「自分は良いことをしている」とか、「悪いことはしない」と誇(ほこ)らしげに 話す人がいますが、その時の「良いこと」とは、その人にとって「得すること、プラスに なること」であり、反対に「悪いこと」とは、「損すること、マイナスになること」を意味 します。

このように、私たちのすべての行動の動機(どうき)、つまり、何かをする時、その気にさ せる「心のキッカケ」になるのは、自らの「損か得かの論理」=「損得論」によるもので すが、そのことを自覚している人は、あまりいないと思います。

ほとんどの人は、世間の目を気にしたり、自分は「善(よ)い人」という「性善説(せいぜん せつ)」を意識し、それを「建て前」に生きていますが、しかし、人は皆(みな)、自らの「本 音」である「損得論」に基づいて生きています。

ですから、世間の人から「あなたは良い人ですね」とか、「尊敬します」などと言われると「得」と感じるため、嬉(うれ)しくなり、反対に「どうして、悪いことをするの」とか、 「困った人ね」と注意や批判を受けると、「損」を感じるため気分が落ち込むなど「一喜 一憂(いっきいちゆう)」を繰り返す生き方をしています。

私たちが「損得論」で生きていることを交差点の信号を例に話せば、道路交通法では青 信号は進め、赤信号は止まれ、黄色の信号は注意して進む、という規則があり、その規則 を守ることが「善(良い)」、守らなければ「悪(悪い)」と「善悪論」で定められています。

しかし、実際、私たちは車で走行中、交差点で信号を見て「善悪論」である道路交通法 第○○条、赤信号は・・・と、道路交通法の何たるかを意識して運転しているでしょうか。 信号が急に変わったり、突然、人が道路に飛び出して来たり、信号を無視した車に遭遇(そうぐう)するなど、予期しない環境の中を走っています。

そのような時、道路交通法第○○条、青信号は進め、赤信号は・・・なんて、呑気(のん き)に考えて運転する暇(ひま)などありません。

「信号を無視したら、罰金を払わないといけない!!」とか、「事故を起こしてケガした ら損だ!!」「人をはねたら、大変なことになる!!」など、さまざまな思いの中で加速(かそ く)したり、ブレーキをかけるなど速度を調整して、事故や違反を回避(かいひ)する運転をし ます。
つまり、罰金(ばっきん)を払ったり、ケガをすることは「損」である、と無意識に「損得 の論理」がはたらいています。

ところで、「善悪論」である法律をはじめ、常識やマナー、礼儀作法など、公序良俗(こ うじゅりょうぞく)に関することは、生きていく上で大事な「決まり」として、幼少期からし っかり頭(あたま)に刷(す)り込まれているため、普段、私たちは当たり前のように「悪いこ とはしない」とか、「良いことをする」とか「善悪論」に基づいた生活をしていますが、そ こで大事なことは、社会の「善悪論」に対し、果たして自らの「損得の論理」が一致(いっ ち)しているかどうか、ということで、そのことを確認しなければなりません。

先の交差点を例に説明すれば、交差点内の横断歩道には、必ず歩行者専用の信号があり、 「赤信号は渡るな」と法律である「善悪論」で定められています。

その時、「何故、赤信号の時は歩道を渡っていけないのか」とか「渡った場合、どうなる のだろうか」と自らの「損得の論理」に照らし合わせて、確認する必要があります。

そうすれば、自らの「損得論」と社会の「善悪論」が一致しているのか、そうでないか が解ります。

要するに、自分にとって「本音の損得論」と、自分にとって建て前の「社会の善悪論」 が一致しているかどうか、つまり、「本音と建て前」の両方の自分が納得し合っているか が重要なポイントで、常に「自己一致(じこいっち)」していなければならない、ということ です。

社会の「善悪論」だからと自らの「損得論」に合わないことを無理に合わせようとする から、「無理、無駄、無意味」なストレスを抱えることになります。

「本音(ほんね)、隠して建(た)て前の、仮面(かめん)の演技(えんぎ)に疲れ切る」という言葉 がありますが、悩みを抱えている人の多くは、「本音」である自らの「損得の感情」を抑(お さ)え、建て前の「善悪論」でその場を繕(つくろ)うとしたり、「損か得か」で生きることは 「はしたない」とか、「恥(は)ずべきこと」と思い込んでいたりするから、「生きにくさ」や 人との「関わりづらさ」を感じ、苦悩を抱えて生きることになります。

このように建て前の「善悪論」で繕(つくろ)う人や、本音の「損得論」を優先することに 戸惑(とまど)う人は、性格的にまじめで几帳面であったり、完璧(かんぺき)を求めたり、気に なる、気にする「心気的(しんきてき)性格傾向」が強く、「がまん、引っ込み、断れない」な ど、傍(はた)から見れば「優(やさ)しくていい人」つまり、「良い子タイプ」と言われますが、 「自分を犠牲(ぎせい)にして、他者のために生きる」というアデックション(悪い思考習慣) を持ち、「自分を持たない」とか、「自分を失(な)くした」生き方をして、絶(た)えず無意味 な葛藤を繰り返す、「愚(おろ)かな人」と言えましょう。

本音である「損得論」をないがしろにして、「建て前」の「善悪論」で生きる人は、常に、 「こうすべき、あるべき」とか、「そうしなければならない」といった「根拠のない義務 感」や「強迫観念」を持ち、生きづらさを感じています。

ちなみに、メンタルサプリ「心が折れない悩み方」で言う「損か得か」という概念(がい ねん)は、金や物など物理的なものを対象にするのではなく、「損」はつらいとか、苦しい、 という意味であり、反対に「得」とは、快いとか、楽である、といった感情や気分など、 感覚的次元における「思いや感情」を対象にしています。

「快を求めて、不快を避ける」という基本的欲求(本能)に基づいて生きる私たちにとっ て、損か得かという捉(とら)え方や感じ方は、非常に解りやすい判断基準と言えます。

また、「快を求めて不快を避ける」という自らの「損得」を優先する本能を持つ私たちに とって、「善悪論」の存在は、「本音」に対する「建て前論」であるため、常にストレスを 抱える元(もと)になっています。

要するに私たちは毎日、「建て前の善悪論」と「本音の損得論」がぶつかり合う狭間(は ざま)を生きているようなもので、ふたつの論理が折り合わなければ悩みや葛藤が生じ、さ まざまな問題を抱えることになります。

ところで、私たちが行動する時、そのキッカケになる「動機」は、善悪論ではなく、自 分にとって「損か、得か」という損得論に基づいています。

しかし、自分にとって「損か得か」を判断する際、きちんと「理論建て」をした上で明 確に判断したのではなく、ほとんどは自分にとって「都合(つごう)が良いのは「得」とか、 「都合が悪い」のは「損」という単純な思いや感情から判断しています。

しかも、そうした思いや感情は、自分の「都合」でコロコロ変わるため、常に自己本位 の「損得感情」が生まれる可能性があり、そのままの状態で生きれば人間関係のトラブル をはじめ、さまざまな問題を引き起こします。

ですから、正しい「損得論」を持つには、社会の「善悪論」と常に「一致」していなけ ればなりません。
つまり「自己一致」していなければならない、と言われる所以(ゆえん)がここにあります。

「善悪論を捨て、損得論で生きる」という目的は、単なる「損得論」で生きるのではな く、「自己一致」した社会的に機能する「損得論」で生きることを言っています。

私たちの身の回りには、「善悪論」の象徴(しょうちょう)である法律や規則をはじめ、グル ープや団体内での「約束ごと」やスポーツ界のルール、公共交通機関の「発着時刻」や登 校時間や出社時刻、そして「常識やマナー」に至(いた)るまで、あらゆる生活場面に「善悪 論」に基づいた「決まりごと」があり、その決まりを守ることを「善(よ)し」とし、守らな いのは「悪い」と定めています。

このように、私たちが生きる社会は「▽▽をしてはいけない」とか、「○○をしましょ う」と「善悪の論理」で禁止されていたり、絶えず制限や制約を受けています。

しかし、そうした「決まりごと」に違和感を持たず、ただ受け入れるのではなく、冷静 な気持ちで、何故、法律や規則があるのか、どうして「決まり」や約束ごとがあるのか、 また、どのような意味を持つのか、どんな影響を及(およ)ぼすのか、を自らの「損得論」に 照らし合わせて確認しなければなりません。

「良い」「悪い」という「善悪」の考えは、国や組織をはじめ、他者が決める論理です が、「損か得か」という論理は、自分が納得できる論理でなければなりません。

しかも、自らの「損得論」のパワーをうまく引き出し、生きる活力にするには、常に「▽ ▽をしてはいけない」という善悪論に対し、「▽▽をした場合」と「▽▽をしない場合」、 どちらが「損か、得か」を確認する必要があります。

その結果、自らの「損得論」と一致できれば(納得することができれば)、仮に厳(きび)し い規則の中で生きようが、多少、理不尽と思われることがあっても、ストレスを感じるこ とは少ないでしょう。

 

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ところで、人生という時間を生きる私たちの幸福感(こうふくかん)の根拠は、その日その 日に何があったかではなく、気分的に「快(こころよ)く、穏(おだ)やかに過(す)ごせる時間」 がどれだけ持てたかで決まります。

余談ですが、「快(かい)医学」という言葉をご存じでしょうか。 世間には「快医学」や「快療法(かいりょうほう)」を実践(じっせん)している人がいて、その人 の言う「快医学」とは、「快(こころよ)い」と感じることを優先することで自らの健康を確 立する「医学」のことだそうです。

小さい頃、食事をした後(あと)、寝転(ねころ)んでいたら、親から「食べた後、すぐに横に なると、牛になるぞ!!」と叱られた経験はないでしょうか。

しかし、食べた後、横になると確かに心地(ここち)良い気分になれます。

「楽である」とか「安らぐ」など気分的に「快(こころよ)い」時間は、何より「得」な時 間であり、「心が折れない悩み方」が求めるテーマと、「快(かい)医学」が求めるテーマは同 じかもしれません。

❖「自己一致」とは。「善悪論(ぜんあくろん)」と「損得論(そんとくろん)」が一致する。

ご存じのように、我が国は法事国家(ほうじこっか)であり、社会は法律や規則という「善 悪の論理」、すなわち「善悪論」によって、私たち一人ひとりの言動をはじめ、あらゆるも のごとに対し、「禁止、あるいは制限」をしています。

また、地域社会や一部の人が集まる社会には、慣習(かんしゅう)や風習(ふうしゅう)と言っ た、その地域や集団での暗黙(あんもく)の「決まり」があり、その決まりを守るのは「良い」 こと、守らないのは「悪い」こと、というような「善悪の論理」があります。

特に、国で定める法律や規則は、「善悪の論理」の最(さい)たるものですが、私たちの日 常生活の中には、みんなが賛成することは「良い」とか、そうでなければ「悪い」という、 その場の「数(かず)の論理」で決める、実に適当な「規則や決まり」があります。

ところで、一般的に「良い」とか「悪い」という「善悪の論理」は、国や組織、集団な ど自分以外の「他者」が決めるものであって、すべての人が「はい、そうですね」「最(もっ と)もです」と受け入れてくれるとは限りません。
何故なら、人にはそれぞれ好みや価値観をはじめ、考え方や捉え方など「解釈の仕方」 による違いがあります。

しかし、一人ひとり誰もが納得して受け入れる時、判断基準にするのは「善悪論」では なく、自分に対する「損得(そんとく)」という論理です。
自分にとって「良いか、悪いか」を判断するより、自分にとって「損(そん)か得(とく)か」 を考える方が解かりやすく、すぐ判断がつきます。

世間には、「自分は良いことをしている」とか、「悪いことはしない」と誇(ほこ)らしげに 話す人がいますが、その時の「良いこと」とは、その人にとって「得すること、プラスに なること」であり、反対に「悪いこと」とは、「損すること、マイナスになること」を意味 します。

このように、私たちのすべての行動の動機(どうき)、つまり、何かをする時、その気にさ せる「心のキッカケ」になるのは、自らの「損か得かの論理」=「損得論」によるもので すが、そのことを自覚している人は、あまりいないと思います。

ほとんどの人は、世間の目を気にしたり、自分は「善(よ)い人」という「性善説(せいぜん せつ)」を意識し、それを「建て前」に生きていますが、しかし、人は皆(みな)、自らの「本 音」である「損得論」に基づいて生きています。

ですから、世間の人から「あなたは良い人ですね」とか、「尊敬します」などと言われると「得」と感じるため、嬉(うれ)しくなり、反対に「どうして、悪いことをするの」とか、 「困った人ね」と注意や批判を受けると、「損」を感じるため気分が落ち込むなど「一喜 一憂(いっきいちゆう)」を繰り返す生き方をしています。

私たちが「損得論」で生きていることを交差点の信号を例に話せば、道路交通法では青 信号は進め、赤信号は止まれ、黄色の信号は注意して進む、という規則があり、その規則 を守ることが「善(良い)」、守らなければ「悪(悪い)」と「善悪論」で定められています。

しかし、実際、私たちは車で走行中、交差点で信号を見て「善悪論」である道路交通法 第○○条、赤信号は・・・と、道路交通法の何たるかを意識して運転しているでしょうか。 信号が急に変わったり、突然、人が道路に飛び出して来たり、信号を無視した車に遭遇(そうぐう)するなど、予期しない環境の中を走っています。

そのような時、道路交通法第○○条、青信号は進め、赤信号は・・・なんて、呑気(のん き)に考えて運転する暇(ひま)などありません。

「信号を無視したら、罰金を払わないといけない!!」とか、「事故を起こしてケガした ら損だ!!」「人をはねたら、大変なことになる!!」など、さまざまな思いの中で加速(かそ く)したり、ブレーキをかけるなど速度を調整して、事故や違反を回避(かいひ)する運転をし ます。
つまり、罰金(ばっきん)を払ったり、ケガをすることは「損」である、と無意識に「損得 の論理」がはたらいています。

ところで、「善悪論」である法律をはじめ、常識やマナー、礼儀作法など、公序良俗(こ うじゅりょうぞく)に関することは、生きていく上で大事な「決まり」として、幼少期からし っかり頭(あたま)に刷(す)り込まれているため、普段、私たちは当たり前のように「悪いこ とはしない」とか、「良いことをする」とか「善悪論」に基づいた生活をしていますが、そ こで大事なことは、社会の「善悪論」に対し、果たして自らの「損得の論理」が一致(いっ ち)しているかどうか、ということで、そのことを確認しなければなりません。

先の交差点を例に説明すれば、交差点内の横断歩道には、必ず歩行者専用の信号があり、 「赤信号は渡るな」と法律である「善悪論」で定められています。

その時、「何故、赤信号の時は歩道を渡っていけないのか」とか「渡った場合、どうなる のだろうか」と自らの「損得の論理」に照らし合わせて、確認する必要があります。

そうすれば、自らの「損得論」と社会の「善悪論」が一致しているのか、そうでないか が解ります。

要するに、自分にとって「本音の損得論」と、自分にとって建て前の「社会の善悪論」 が一致しているかどうか、つまり、「本音と建て前」の両方の自分が納得し合っているか が重要なポイントで、常に「自己一致(じこいっち)」していなければならない、ということ です。

社会の「善悪論」だからと自らの「損得論」に合わないことを無理に合わせようとする から、「無理、無駄、無意味」なストレスを抱えることになります。

「本音(ほんね)、隠して建(た)て前の、仮面(かめん)の演技(えんぎ)に疲れ切る」という言葉 がありますが、悩みを抱えている人の多くは、「本音」である自らの「損得の感情」を抑(お さ)え、建て前の「善悪論」でその場を繕(つくろ)うとしたり、「損か得か」で生きることは 「はしたない」とか、「恥(は)ずべきこと」と思い込んでいたりするから、「生きにくさ」や 人との「関わりづらさ」を感じ、苦悩を抱えて生きることになります。

このように建て前の「善悪論」で繕(つくろ)う人や、本音の「損得論」を優先することに 戸惑(とまど)う人は、性格的にまじめで几帳面であったり、完璧(かんぺき)を求めたり、気に なる、気にする「心気的(しんきてき)性格傾向」が強く、「がまん、引っ込み、断れない」な ど、傍(はた)から見れば「優(やさ)しくていい人」つまり、「良い子タイプ」と言われますが、 「自分を犠牲(ぎせい)にして、他者のために生きる」というアデックション(悪い思考習慣) を持ち、「自分を持たない」とか、「自分を失(な)くした」生き方をして、絶(た)えず無意味 な葛藤を繰り返す、「愚(おろ)かな人」と言えましょう。

本音である「損得論」をないがしろにして、「建て前」の「善悪論」で生きる人は、常に、 「こうすべき、あるべき」とか、「そうしなければならない」といった「根拠のない義務 感」や「強迫観念」を持ち、生きづらさを感じています。

ちなみに、メンタルサプリ「心が折れない悩み方」で言う「損か得か」という概念(がい ねん)は、金や物など物理的なものを対象にするのではなく、「損」はつらいとか、苦しい、 という意味であり、反対に「得」とは、快いとか、楽である、といった感情や気分など、 感覚的次元における「思いや感情」を対象にしています。

「快を求めて、不快を避ける」という基本的欲求(本能)に基づいて生きる私たちにとっ て、損か得かという捉(とら)え方や感じ方は、非常に解りやすい判断基準と言えます。

また、「快を求めて不快を避ける」という自らの「損得」を優先する本能を持つ私たちに とって、「善悪論」の存在は、「本音」に対する「建て前論」であるため、常にストレスを 抱える元(もと)になっています。

要するに私たちは毎日、「建て前の善悪論」と「本音の損得論」がぶつかり合う狭間(は ざま)を生きているようなもので、ふたつの論理が折り合わなければ悩みや葛藤が生じ、さ まざまな問題を抱えることになります。

ところで、私たちが行動する時、そのキッカケになる「動機」は、善悪論ではなく、自 分にとって「損か、得か」という損得論に基づいています。

しかし、自分にとって「損か得か」を判断する際、きちんと「理論建て」をした上で明 確に判断したのではなく、ほとんどは自分にとって「都合(つごう)が良いのは「得」とか、 「都合が悪い」のは「損」という単純な思いや感情から判断しています。

しかも、そうした思いや感情は、自分の「都合」でコロコロ変わるため、常に自己本位 の「損得感情」が生まれる可能性があり、そのままの状態で生きれば人間関係のトラブル をはじめ、さまざまな問題を引き起こします。

ですから、正しい「損得論」を持つには、社会の「善悪論」と常に「一致」していなけ ればなりません。
つまり「自己一致」していなければならない、と言われる所以(ゆえん)がここにあります。

「善悪論を捨て、損得論で生きる」という目的は、単なる「損得論」で生きるのではな く、「自己一致」した社会的に機能する「損得論」で生きることを言っています。

私たちの身の回りには、「善悪論」の象徴(しょうちょう)である法律や規則をはじめ、グル ープや団体内での「約束ごと」やスポーツ界のルール、公共交通機関の「発着時刻」や登 校時間や出社時刻、そして「常識やマナー」に至(いた)るまで、あらゆる生活場面に「善悪 論」に基づいた「決まりごと」があり、その決まりを守ることを「善(よ)し」とし、守らな いのは「悪い」と定めています。

このように、私たちが生きる社会は「▽▽をしてはいけない」とか、「○○をしましょ う」と「善悪の論理」で禁止されていたり、絶えず制限や制約を受けています。

しかし、そうした「決まりごと」に違和感を持たず、ただ受け入れるのではなく、冷静 な気持ちで、何故、法律や規則があるのか、どうして「決まり」や約束ごとがあるのか、 また、どのような意味を持つのか、どんな影響を及(およ)ぼすのか、を自らの「損得論」に 照らし合わせて確認しなければなりません。

「良い」「悪い」という「善悪」の考えは、国や組織をはじめ、他者が決める論理です が、「損か得か」という論理は、自分が納得できる論理でなければなりません。

しかも、自らの「損得論」のパワーをうまく引き出し、生きる活力にするには、常に「▽ ▽をしてはいけない」という善悪論に対し、「▽▽をした場合」と「▽▽をしない場合」、 どちらが「損か、得か」を確認する必要があります。

その結果、自らの「損得論」と一致できれば(納得することができれば)、仮に厳(きび)し い規則の中で生きようが、多少、理不尽と思われることがあっても、ストレスを感じるこ とは少ないでしょう。

 

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ところで、人生という時間を生きる私たちの幸福感(こうふくかん)の根拠は、その日その 日に何があったかではなく、気分的に「快(こころよ)く、穏(おだ)やかに過(す)ごせる時間」 がどれだけ持てたかで決まります。

余談ですが、「快(かい)医学」という言葉をご存じでしょうか。 世間には「快医学」や「快療法(かいりょうほう)」を実践(じっせん)している人がいて、その人 の言う「快医学」とは、「快(こころよ)い」と感じることを優先することで自らの健康を確 立する「医学」のことだそうです。

小さい頃、食事をした後(あと)、寝転(ねころ)んでいたら、親から「食べた後、すぐに横に なると、牛になるぞ!!」と叱られた経験はないでしょうか。

しかし、食べた後、横になると確かに心地(ここち)良い気分になれます。

「楽である」とか「安らぐ」など気分的に「快(こころよ)い」時間は、何より「得」な時 間であり、「心が折れない悩み方」が求めるテーマと、「快(かい)医学」が求めるテーマは同 じかもしれません。

MHPC