10.「楽観性」を養う。
「楽観的思考」を身につける。

❖④「楽観性(らっかんせい)」を養う。「楽観的思考」を身につける。

世の中には「楽観的な人」と「悲観的な人」がいますが、その違いは「解釈の仕方」にあります。 楽観的には「特性的楽観性」と「学習的楽観性」があり、「特性的楽観性」の人は、普段から周りの人に「あの人はもともと楽観的な人だから」と言われるように、ものごとや出 来事に対し「おそらく大丈夫だろう」とか「なるようになるさ」と良い結果を予測する認 知傾向(にんちけいこう)を持ち、プラス思考で生きています。

また、「学習的楽観性」について言えば、何かで失敗した時、「何故、失敗したのか」を 考えると1いつもか、2どんな場合でもか、3自分のせいかの 3 つの視点があります。

まず、①のいつもか、一時的かについて楽観的な人は、「いつも失敗するわけではない、 今回だけで次はうまくいく」と解釈しますが、反対に悲観的な人は「うまくいかないなら、 これから先もうまくいかないだろう」と解釈します。

次に、②のどんな場合でもか、について楽観的な人は、「今回、うまくいかなかったの は、このような場合(今回に限ったことで)、別の場合はうまくいく」と解釈しますが、悲観的な人は、「今、うまくいかないということは、どんな場合でもうまくいかないに違い ない」と解釈します。

さらに、③の「自分のせいか」「その他のせいか」という内在的か外在的かについて、楽観的な人は「自分だけのせいではない、◇◇がいけなかった、今度○○に変えればうまく いく」と解釈しますが、悲観的な人は「自分に原因がある、自分のせいだ」と解釈します。

この「学習的楽観性」は、性格や気質というより、自ら体験した出来事に対する「解釈」 や「考え方の習慣」であり、変えようとすれば変えることができます。

このように、ものごとや出来事に対し、常に楽観的に解釈する習慣があれば、「心が折れない悩み方」が一層、身につきやすくなります。

ところで、楽観的と悲観的を考えた時、言葉のイメージから「楽観的な方がいい」と多 くの人は答えるでしょうが、しかし、どちらもうまく機能しなければなりません。

「過(す)ぎたるは、猶(なお)及(およ)ばざるが如(ごと)し」という言葉があるように、楽観的 過ぎると、自分に都合の良いことだけを見て自己満足をしたり、危機的な場面では、現実 を直視(ちょくし)せず、何の対策も講じないという問題点が生じます。

反対に、不都合な事態が起こるかもしれないと悲観的に考えて、前もって対処すれば、 「転ばぬ先の杖(つえ)」とか、「石橋を叩(たた)いて渡る」という諺(ことわざ)のように、危機的な状況を避けたり、事前に防止することができます。

ですから、楽観的や悲観的のそれぞれのプラス面とマイナスの面を理解して、「過(す)ぎず、足(た)らず」程(ほど)よい、つまり、私の造語の「余意(よい)」の心、つまり、中庸(ちゅ うよう)の心の位置で、うまく使い分けをしなければなりません。

「いくら便利」と言われても、 使ってすっきりしないのは、 決して「良い」とは言えません。

「楽観的」に「悲観的」、 うまく機能しなければ、
正に、「宝の持ち腐(ぐさ)れ」、 正しく使い分けてこそ、生きるパワーになるのです。

人生は、ゲームであると、 人は言う。 「勝った、負けた」は、ゲームの流れ、 ゲームは本来、楽しむものだが、 「勝とう!!」としたり、 「負けない!!」ところに、 「悩み」が生まれる。

勝つと何より、うれしくて、 「楽観的」に舞い上がり、 負けては自分を否定して、 「悲観的」に沈み込む、 エレベーターじゃ、あるまいし 「上(あ)がり下(さ)がりの人生」を、 誰もが経験しています。

しかし人生、限(かぎ)られた、 時間の中で生きる時、 一喜一憂するよりも、 いつも穏(おだ)やか、快(こころよ)い、 時間を多く持つことを、 生きる課題(かだい)にするならば、 求めなくても「幸せ」は、 自然にやって来るのです。

さらに、日々の会話でポジティブな言葉を多く話しているのか、反対にネガティブな言 葉を話しているのか、という点をチェックする必要があります。

「以前もうまくいきましたから、大丈夫です」とか、「すばらしい考えだ、私がやります」「初めから無理と決めつけないで、とりあえずやってみましょう」など、ポジティブ な言葉を多く使う習慣があれば、楽観性が身につきます。

「でも、だけど」、 「だって、どうせ」の頭文字(かしらもじ) 「4D」プラスに「今さら」や、 「私なんか」が口癖(くちぐせ)に、 なったら「人間、やめる」しか、 ないかもしれない・・どう、思う?

さらに加えて言うならば、 「いやだぁ」、「参ったぁ」、「困った」と、 グチと一緒に吐(は)く言葉、 そっくりそのまま、吸うことになる。
グチを吐くから、グチっぽいのか、 グチっぽいから、グチを吐くのか、 一体どちらが正しいの?
「呼吸(こきゅう)」に聞いてみなければ、 おそらく、解りはしないだろう。

このように、初めに話す言葉が「分かりました、でも・・」とか、「だけど、だって、どうせ・・」などの言葉に、「今さら」「私なんか」と「ネガティブな言葉」が続けば、「最悪 の結果」を招くことになるから、十分気をつけなければなりません。
悩みを抱え、克服できないでいる人は、決まってこのような言葉を多く口にします。

ここで、楽観的や悲観的を考える上で、知っておかなければならない重要なことは、「悲 観的になる」のは「気分の問題」であり、「楽観的になる」のは「意志の問題」である、と いうことです。

例えば、歩いている時、道路の片隅(かたすみ)に一万円札が落ちていたとしましょう。 その時「あっ!お金が落ちている!!」「ラッキー!!拾(ひろ)っちゃおう」とお金を見つけた 瞬間(しゅんかん)、自分の懐(ふところ)に入れたいと、おそらく、誰でも思うはずです。

この時の「拾って自分のものにしたい」と思うのは、「気分の問題」ですから、そのよう に思っても、何ら問題はありません。

ところが、拾って「自分のものにするか」、「交番に届けるか」は「意志の問題」である ため、どちらを選択するかによって「犯罪者」になるか、「正直者(しょうじきもの)の善良な 市民」になるかに分かれます。

勿論、このような場面では、拾ったものは何であれ、警察や交番に届け、勝手に「ネコ ババ」してはいけません。
その理由は、単純明快(たんじゅんめいかい)!!自分のものではないからです。
くれぐれも、その時の「気分」に任(まか)せて行動するのではなく、常に冷静に正しく判断 できるしっかりした「意志」を持たなければなりません。

ところで、日々の生活にはいろんな出来事があり、その中で私たちは喜んだり、悲しん だり「一喜一憂(いっきいちゆう)」しながら生きていますが、同じ店で食べるラーメンの味の 「旨(うま)さ、まずさ」の違いや、同じ景色を眺(なが)めた時の「感想」や「感動」の違いな ど、同じ出来事や状況であっても、人それぞれ、感じ方や受け止め方が違うのは、何故な のでしょうか。

それは、私たちの喜びや悲しみなど、さまざまな思いや感情が生まれる背景には、「何 があったかではなく、どのように解釈するか(したか)」という、つまり、「考え方や捉え方、受け止め方や見方」など、本人の『意志』による「解釈の仕方」「解釈の習慣」が大き く影響しています。

例として、過去に失敗や過(あやま)ちを犯(おか)して、「何て自分はダメなんだろう」と自 分を責めたり、「こんな自分は価値がない」と自暴自棄(じぼうじき)になるのは、一時的には 仕方がないかもしれませんが、そのことで「悩み続ける」というその背景には、既に犯(お か)してしまった失敗や過ちを、「悲観的」に解釈している自分がいるわけで、その自分を 「意識的」に、すなわち「意志の力」で変えるとか、悲観的な「解釈」を「意志の力」で 変えない限り、悩み続けることになります。

要するにこの場合、「悲観的に解釈する」先入観がある、ということで、ラーメンの味も 眺める景色にも同じことが言えます。

常に、感情両価性(かんじょうりょうかせい)、つまり、「両面観」をはたらかせ、「ピンチは チャンスなんだ」と、チャンスというプラスの意味や価値を見出し、「あの失敗があった から、今、○○ができる」というように、意志の力で「前向きな考えや気持ち」に変えて いければ、最高!!です。

私たちに関わるすべてを変えるのは、一人ひとり「意志の力」であり、意志の力で何ごとも変えられる、ということを忘れてはいけません。

ちなみに、世間から「意志が弱い人」とか、「意志薄弱(いしはくじゃく)な人」と言われる 人の多くは、本人の気持ちに一貫性(いっかんせい)がなく、いろんなことに「こだわり、と らわれている」とか、勝手に「思い込み、決めつけている」ため、解りやすく言えば、本 人の「意志」があちこち「よそ見」をしている、つまり、「意志の力」が分散しているから ひとつのことに集中できないでいる、と考えられます。

動物は、「よそ見」をしながら生きてるが、 人間に、「よそ見」があってはいけません。

動物がひとつのことに集中し、 「よそ見」しないで生きたなら、 周囲に対する警戒や、 身の安全が守られず、 たちまち命(いのち)を 亡(な)くすでしょう。

日々の暮らしや生活で、 「ゆとり」がなくては、いけないが、 「のんべんだらり」と続けては、 「ゆるみ、たるみ」になるだけで、 「よそ見」をするのと、同じこと。 やがて、生命(いのち)を失(な)くすでしょう。

メンタルサプリ「心が折れない悩み方」における「楽観性」や「楽観的思考」を身につ ける目的とは、①「心が折れた」状態を克服するとか、②「心が折れない」生活を維持す るというふたつがあります。

しかし、闇雲(やみくも)に楽観的に生きれば良いというものではなく、反対に、悲観的に なるのは「ダメ」と否定するのでもなく、感情両価性(両面観)をはたらかせ、いずれも状 況に適応するように、うまく「機能させる」ことが重要であるということです。

そのためには、「意志の力」で楽観的や悲観的な思いや考えを、現実の状況にうまく反 映(はんえい)させなければなりません。

ちなみに意志とは、言うまでもなく、その人本人の「思い」であり、その意志の強さ、 弱さは、ものごとや出来事をどのように解釈するかで決まります。

余談ですが、例え、無理だと思うことでも「意志の力」で「絶対、成し遂げてやる!!」 と思いを強くすれば、「健康的野心(けんこうてきやしん)」というものが生まれ、自らの人生 を活性化(かっせいか)することができます。

❖④「楽観性(らっかんせい)」を養う。「楽観的思考」を身につける。

世の中には「楽観的な人」と「悲観的な人」がいますが、その違いは「解釈の仕方」にあります。 楽観的には「特性的楽観性」と「学習的楽観性」があり、「特性的楽観性」の人は、普段から周りの人に「あの人はもともと楽観的な人だから」と言われるように、ものごとや出 来事に対し「おそらく大丈夫だろう」とか「なるようになるさ」と良い結果を予測する認 知傾向(にんちけいこう)を持ち、プラス思考で生きています。

また、「学習的楽観性」について言えば、何かで失敗した時、「何故、失敗したのか」を 考えると1いつもか、2どんな場合でもか、3自分のせいかの 3 つの視点があります。

まず、①のいつもか、一時的かについて楽観的な人は、「いつも失敗するわけではない、 今回だけで次はうまくいく」と解釈しますが、反対に悲観的な人は「うまくいかないなら、 これから先もうまくいかないだろう」と解釈します。

次に、②のどんな場合でもか、について楽観的な人は、「今回、うまくいかなかったの は、このような場合(今回に限ったことで)、別の場合はうまくいく」と解釈しますが、悲 観的な人は、「今、うまくいかないということは、どんな場合でもうまくいかないに違い ない」と解釈します。

さらに、③の「自分のせいか」「その他のせいか」という内在的か外在的かについて、楽 観的な人は「自分だけのせいではない、◇◇がいけなかった、今度○○に変えればうまく いく」と解釈しますが、悲観的な人は「自分に原因がある、自分のせいだ」と解釈します。

この「学習的楽観性」は、性格や気質というより、自ら体験した出来事に対する「解釈」 や「考え方の習慣」であり、変えようとすれば変えることができます。

このように、ものごとや出来事に対し、常に楽観的に解釈する習慣があれば、「心が折 れない悩み方」が一層、身につきやすくなります。

ところで、楽観的と悲観的を考えた時、言葉のイメージから「楽観的な方がいい」と多 くの人は答えるでしょうが、しかし、どちらもうまく機能しなければなりません。

「過(す)ぎたるは、猶(なお)及(およ)ばざるが如(ごと)し」という言葉があるように、楽観的 過ぎると、自分に都合の良いことだけを見て自己満足をしたり、危機的な場面では、現実 を直視(ちょくし)せず、何の対策も講じないという問題点が生じます。

反対に、不都合な事態が起こるかもしれないと悲観的に考えて、前もって対処すれば、 「転ばぬ先の杖(つえ)」とか、「石橋を叩(たた)いて渡る」という諺(ことわざ)のように、危機的な状況を避けたり、事前に防止することができます。

ですから、楽観的や悲観的のそれぞれのプラス面とマイナスの面を理解して、「過(す)ぎ ず、足(た)らず」程(ほど)よい、つまり、私の造語の「余意(よい)」の心、つまり、中庸(ちゅ うよう)の心の位置で、うまく使い分けをしなければなりません。

「いくら便利」と言われても、 使ってすっきりしないのは、 決して「良い」とは言えません。

「楽観的」に「悲観的」、 うまく機能しなければ、
正に、「宝の持ち腐(ぐさ)れ」、 正しく使い分けてこそ、生きるパワーになるのです。

人生は、ゲームであると、 人は言う。 「勝った、負けた」は、ゲームの流れ、 ゲームは本来、楽しむものだが、 「勝とう!!」としたり、 「負けない!!」ところに、 「悩み」が生まれる。

勝つと何より、うれしくて、 「楽観的」に舞い上がり、 負けては自分を否定して、 「悲観的」に沈み込む、 エレベーターじゃ、あるまいし 「上(あ)がり下(さ)がりの人生」を、 誰もが経験しています。

しかし人生、限(かぎ)られた、 時間の中で生きる時、 一喜一憂するよりも、 いつも穏(おだ)やか、快(こころよ)い、 時間を多く持つことを、 生きる課題(かだい)にするならば、 求めなくても「幸せ」は、 自然にやって来るのです。

さらに、日々の会話でポジティブな言葉を多く話しているのか、反対にネガティブな言 葉を話しているのか、という点をチェックする必要があります。

「以前もうまくいきましたから、大丈夫です」とか、「すばらしい考えだ、私がやりま す」「初めから無理と決めつけないで、とりあえずやってみましょう」など、ポジティブ な言葉を多く使う習慣があれば、楽観性が身につきます。

「でも、だけど」、 「だって、どうせ」の頭文字(かしらもじ) 「4D」プラスに「今さら」や、 「私なんか」が口癖(くちぐせ)に、 なったら「人間、やめる」しか、 ないかもしれない・・どう、思う?

さらに加えて言うならば、 「いやだぁ」、「参ったぁ」、「困った」と、 グチと一緒に吐(は)く言葉、 そっくりそのまま、吸うことになる。
グチを吐くから、グチっぽいのか、 グチっぽいから、グチを吐くのか、 一体どちらが正しいの?
「呼吸(こきゅう)」に聞いてみなければ、 おそらく、解りはしないだろう。

このように、初めに話す言葉が「分かりました、でも・・」とか、「だけど、だって、ど うせ・・」などの言葉に、「今さら」「私なんか」と「ネガティブな言葉」が続けば、「最悪 の結果」を招くことになるから、十分気をつけなければなりません。
悩みを抱え、克服できないでいる人は、決まってこのような言葉を多く口にします。

ここで、楽観的や悲観的を考える上で、知っておかなければならない重要なことは、「悲 観的になる」のは「気分の問題」であり、「楽観的になる」のは「意志の問題」である、と いうことです。

例えば、歩いている時、道路の片隅(かたすみ)に一万円札が落ちていたとしましょう。 その時「あっ!お金が落ちている!!」「ラッキー!!拾(ひろ)っちゃおう」とお金を見つけた 瞬間(しゅんかん)、自分の懐(ふところ)に入れたいと、おそらく、誰でも思うはずです。

この時の「拾って自分のものにしたい」と思うのは、「気分の問題」ですから、そのよう に思っても、何ら問題はありません。

ところが、拾って「自分のものにするか」、「交番に届けるか」は「意志の問題」である ため、どちらを選択するかによって「犯罪者」になるか、「正直者(しょうじきもの)の善良な 市民」になるかに分かれます。

勿論、このような場面では、拾ったものは何であれ、警察や交番に届け、勝手に「ネコ ババ」してはいけません。
その理由は、単純明快(たんじゅんめいかい)!!自分のものではないからです。
くれぐれも、その時の「気分」に任(まか)せて行動するのではなく、常に冷静に正しく判断 できるしっかりした「意志」を持たなければなりません。

ところで、日々の生活にはいろんな出来事があり、その中で私たちは喜んだり、悲しん だり「一喜一憂(いっきいちゆう)」しながら生きていますが、同じ店で食べるラーメンの味の 「旨(うま)さ、まずさ」の違いや、同じ景色を眺(なが)めた時の「感想」や「感動」の違いな ど、同じ出来事や状況であっても、人それぞれ、感じ方や受け止め方が違うのは、何故な のでしょうか。

それは、私たちの喜びや悲しみなど、さまざまな思いや感情が生まれる背景には、「何 があったかではなく、どのように解釈するか(したか)」という、つまり、「考え方や捉え方、受け止め方や見方」など、本人の『意志』による「解釈の仕方」「解釈の習慣」が大き く影響しています。

例として、過去に失敗や過(あやま)ちを犯(おか)して、「何て自分はダメなんだろう」と自 分を責めたり、「こんな自分は価値がない」と自暴自棄(じぼうじき)になるのは、一時的には 仕方がないかもしれませんが、そのことで「悩み続ける」というその背景には、既に犯(お か)してしまった失敗や過ちを、「悲観的」に解釈している自分がいるわけで、その自分を 「意識的」に、すなわち「意志の力」で変えるとか、悲観的な「解釈」を「意志の力」で 変えない限り、悩み続けることになります。

要するにこの場合、「悲観的に解釈する」先入観がある、ということで、ラーメンの味も 眺める景色にも同じことが言えます。

常に、感情両価性(かんじょうりょうかせい)、つまり、「両面観」をはたらかせ、「ピンチは チャンスなんだ」と、チャンスというプラスの意味や価値を見出し、「あの失敗があった から、今、○○ができる」というように、意志の力で「前向きな考えや気持ち」に変えて いければ、最高!!です。

私たちに関わるすべてを変えるのは、一人ひとり「意志の力」であり、意志の力で何ご とも変えられる、ということを忘れてはいけません。

ちなみに、世間から「意志が弱い人」とか、「意志薄弱(いしはくじゃく)な人」と言われる 人の多くは、本人の気持ちに一貫性(いっかんせい)がなく、いろんなことに「こだわり、と らわれている」とか、勝手に「思い込み、決めつけている」ため、解りやすく言えば、本 人の「意志」があちこち「よそ見」をしている、つまり、「意志の力」が分散しているから ひとつのことに集中できないでいる、と考えられます。

動物は、「よそ見」をしながら生きてるが、 人間に、「よそ見」があってはいけません。

動物がひとつのことに集中し、 「よそ見」しないで生きたなら、 周囲に対する警戒や、 身の安全が守られず、 たちまち命(いのち)を 亡(な)くすでしょう。

日々の暮らしや生活で、 「ゆとり」がなくては、いけないが、 「のんべんだらり」と続けては、 「ゆるみ、たるみ」になるだけで、 「よそ見」をするのと、同じこと。 やがて、生命(いのち)を失(な)くすでしょう。

メンタルサプリ「心が折れない悩み方」における「楽観性」や「楽観的思考」を身につ ける目的とは、1「心が折れた」状態を克服するとか、2「心が折れない」生活を維持す るというふたつがあります。

しかし、闇雲(やみくも)に楽観的に生きれば良いというものではなく、反対に、悲観的に なるのは「ダメ」と否定するのでもなく、感情両価性(両面観)をはたらかせ、いずれも状 況に適応するように、うまく「機能させる」ことが重要であるということです。

そのためには、「意志の力」で楽観的や悲観的な思いや考えを、現実の状況にうまく反 映(はんえい)させなければなりません。

ちなみに意志とは、言うまでもなく、その人本人の「思い」であり、その意志の強さ、 弱さは、ものごとや出来事をどのように解釈するかで決まります。

余談ですが、例え、無理だと思うことでも「意志の力」で「絶対、成し遂げてやる!!」 と思いを強くすれば、「健康的野心(けんこうてきやしん)」というものが生まれ、自らの人生 を活性化(かっせいか)することができます。


代表・矢吹孝志(やぶきたかし) 福島県生まれ

*MHPC代表、健康・教育カウンセラー
*レジリエンスセラピスト
*公立学校共済組合福島県支部「こころのケア事業」
 ・委託カウンセラー
*ティーペック(株)東京/大阪 ・委託カウンセラー
*システムブレーン/ライセンスアカデミー(講師派遣会社)
 ・登録講師
*NPO法人・日本フリースクール協会理事

書籍案内

「子どもは親を選べない」
幻冬舎ルネッサンス

「心の病はこうして直す」
文芸社

「余意の生き方」
現代書林

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〒963-8813 福島県郡山市芳賀2丁目21-10
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