19.「位置」という意味を考える。

「位置(いち)」という意味を考える。

私たちは日々、いろんな人と関わりながら生きています。
ここで言う「位置」とは、前に立つか、うしろに立つかの位置ではなく、人と関わる時の 「心の位置」を言います。

人は、百人百様、性格や気質、好みや価値観をはじめ、ものごとや出来事に対する見方 や捉え方、考え方や受け止め方などさまざまです。

そのため、価値観の多様化した現代社会を生きていくには、些細(ささい)なことではぶれ ない、確固(かっこ)たる信念を持つ、つまり、「心の位置」を確立しなければなりません。

何かにつけ、人や環境に左右されたり、人の話を鵜呑(うの)みにしたり、また、引っ込み 思案(じあん)で相手に遠慮して断れないなど、自分を犠牲にして、人のために生きるような 「自分を持たない生き方」は、「人のくしゃみで風邪をひく」ように、やがて心が折れて、 悩み苦しむことになります。

また、人間関係とは、そもそも好みや価値観の違う者同士が関わり合うわけだから、常 に「伺う」という言葉や態度で接することや、その結果、自分が納得すれば「折り合い」、 折り合うことができなければ、すっきり、さっぱり「お互いさま」と断ることが大事です。

人間関係は「伺って、折り合って、お互いさま」の関係でなければなりません。

また、人間関係のトラブルの原因は、「相手の課題(かだい)に入り込むか、自分の課題に 入り込まれることによって起こる」ということです。

ですから、一人の時も含め、人と付き合う時は、常に誰の課題なのか、誰が成すべきこ となのか、また、自分の問題か、相手の問題かを判断して、付かず離れずの距離を保つこ とで「課題の分離」をしなければなりません。

ある中学生の男子は、特に父親が嫌いというわけではないが、何かにつけ父親とうまく 折り合うことが出来ず、長い間、悩んでいます。

そうした背景には、男子の思いの中に「父親だから、尊敬しなくてはならない」とか、 「親子だから、仲良しの関係でいなけれればならない」と「何々だから、○○しなければ ならない」という根拠のない義務感があって、「強迫(きょうはく)的な思い」を抱いている可 能性があります。

「何々だから、○○しなければならない」とか、「○○しなさい!!」という言葉には、整合性(せいごうせい)がなく、非常に乱暴な言葉です。

人と人との関係には、「肌が合う」とか、「フィーリングが合う」、「あの人といると、何 となく安らぐ」など、頭では計算できない「相性(あいしょう)」というものがあります。

中学性の男子の場合、「たとえ、親子であっても相性が合うとは限らない」とか、「合わ ない時は、無理して合わせなくてもいい」「合わなくてもお互いさまなんだ」という意識 を持つことが大切で、父親と関わる男子の「心の位置」はここにあります。

「楽しい」人生を送るのか、「楽しく」人生を送るのか、についても、本来、「楽しい人 生」というものは、仮にあったとしても長く続くものではありません。

しかし、「楽しく」生きるとなれば、意味は全く違ったものになります。 「楽しく生きる」とは、自分の意志の問題ですから、どのような「生活場面」でも、考え 方や受け止め方など「解釈の仕方」によって、「楽しく」生きることができます。

「住めば都(みやこ)」という言葉がありますが、移り住んだ時は好まない嫌な土地でも、 「ここしかない、ここで住み続けていこう」と覚悟すれば、その土地で「楽しく」暮らそ うという気持ち=意志が生まれ、やがて、住(す)み心地(ごこち)の良い土地になります。

また、修道女(しゅうどうじょ)である「ノートルダム清心女子学園」理事長の渡辺和子さん の著書「置かれた場所で咲きなさい」の中で、あちらこちら「よそ見」をしたり、人と比 べて一喜一憂(いっきいちゆう)するのではなく、「今」いる場所や環境、つまり、現在、自分 が暮らしている境遇(きょうぐう)をあるがまま受け入れ、そこで、努力を重ね、「楽しく」生 きる気持ち=意志を持たなければならない、と言っています。

このような考えは、私たちの社会に対する「心の位置」であり、社会生活に欠かすこと ができない、大切な「決まり」です。

私たちは相手が人であれ、環境であれ、あらゆる生活場面で、確固(かっこ)たる「心の位 置」を持たなければなりません。

身近なところでは、「おいしい物を食べるのか、おいしく物を食べるのか」、「楽しい時 間を過ごすのか、楽しく時間を過ごすのか」、など「心の位置」をどこに置くかで、その後 の人生は大きく変わります。

「位置(いち)」という意味を考える。

私たちは日々、いろんな人と関わりながら生きています。
ここで言う「位置」とは、前に立つか、うしろに立つかの位置ではなく、人と関わる時の 「心の位置」を言います。

人は、百人百様、性格や気質、好みや価値観をはじめ、ものごとや出来事に対する見方 や捉え方、考え方や受け止め方などさまざまです。

そのため、価値観の多様化した現代社会を生きていくには、些細(ささい)なことではぶれ ない、確固(かっこ)たる信念を持つ、つまり、「心の位置」を確立しなければなりません。

何かにつけ、人や環境に左右されたり、人の話を鵜呑(うの)みにしたり、また、引っ込み 思案(じあん)で相手に遠慮して断れないなど、自分を犠牲にして、人のために生きるような 「自分を持たない生き方」は、「人のくしゃみで風邪をひく」ように、やがて心が折れて、 悩み苦しむことになります。

また、人間関係とは、そもそも好みや価値観の違う者同士が関わり合うわけだから、常 に「伺う」という言葉や態度で接することや、その結果、自分が納得すれば「折り合い」、 折り合うことができなければ、すっきり、さっぱり「お互いさま」と断ることが大事です。

人間関係は「伺って、折り合って、お互いさま」の関係でなければなりません。

また、人間関係のトラブルの原因は、「相手の課題(かだい)に入り込むか、自分の課題に 入り込まれることによって起こる」ということです。

ですから、一人の時も含め、人と付き合う時は、常に誰の課題なのか、誰が成すべきこ となのか、また、自分の問題か、相手の問題かを判断して、付かず離れずの距離を保つこ とで「課題の分離」をしなければなりません。

ある中学生の男子は、特に父親が嫌いというわけではないが、何かにつけ父親とうまく 折り合うことが出来ず、長い間、悩んでいます。

そうした背景には、男子の思いの中に「父親だから、尊敬しなくてはならない」とか、 「親子だから、仲良しの関係でいなけれればならない」と「何々だから、○○しなければ ならない」という根拠のない義務感があって、「強迫(きょうはく)的な思い」を抱いている可 能性があります。

「何々だから、○○しなければならない」とか、「○○しなさい!!」という言葉には、整合性(せいごうせい)がなく、非常に乱暴な言葉です。

人と人との関係には、「肌が合う」とか、「フィーリングが合う」、「あの人といると、何 となく安らぐ」など、頭では計算できない「相性(あいしょう)」というものがあります。

中学性の男子の場合、「たとえ、親子であっても相性が合うとは限らない」とか、「合わ ない時は、無理して合わせなくてもいい」「合わなくてもお互いさまなんだ」という意識 を持つことが大切で、父親と関わる男子の「心の位置」はここにあります。

「楽しい」人生を送るのか、「楽しく」人生を送るのか、についても、本来、「楽しい人 生」というものは、仮にあったとしても長く続くものではありません。

しかし、「楽しく」生きるとなれば、意味は全く違ったものになります。 「楽しく生きる」とは、自分の意志の問題ですから、どのような「生活場面」でも、考え 方や受け止め方など「解釈の仕方」によって、「楽しく」生きることができます。

「住めば都(みやこ)」という言葉がありますが、移り住んだ時は好まない嫌な土地でも、 「ここしかない、ここで住み続けていこう」と覚悟すれば、その土地で「楽しく」暮らそ うという気持ち=意志が生まれ、やがて、住(す)み心地(ごこち)の良い土地になります。

また、修道女(しゅうどうじょ)である「ノートルダム清心女子学園」理事長の渡辺和子さん の著書「置かれた場所で咲きなさい」の中で、あちらこちら「よそ見」をしたり、人と比 べて一喜一憂(いっきいちゆう)するのではなく、「今」いる場所や環境、つまり、現在、自分 が暮らしている境遇(きょうぐう)をあるがまま受け入れ、そこで、努力を重ね、「楽しく」生 きる気持ち=意志を持たなければならない、と言っています。

このような考えは、私たちの社会に対する「心の位置」であり、社会生活に欠かすこと ができない、大切な「決まり」です。

私たちは相手が人であれ、環境であれ、あらゆる生活場面で、確固(かっこ)たる「心の位 置」を持たなければなりません。

身近なところでは、「おいしい物を食べるのか、おいしく物を食べるのか」、「楽しい時 間を過ごすのか、楽しく時間を過ごすのか」、など「心の位置」をどこに置くかで、その後 の人生は大きく変わります。

MHPC