35.社会的自立へ向けて。
その③「自己責任」とは。

❖社会的自立に向けて。その ③「自己責任」とは。

わが国、日本は誠に「自由」な国であり、言論の自由や表現の自由、学問の自由など、憲法(けんぽう)で保証されている「自由」がたくさんあります。

こんなにも「自由」があってほんとうに良いのだろうかと、多少(たしょう)、遠慮(えんり ょ)する気持ちもないわけではないが、しかし、我が国は間違いなく「自由主義国家」です。

しかし、我が国は自由主義国家であると同時に、法事国家(ほうじこっか)でもあり、「何を するにも自由だが、その結果の責任はきちんと取りなさいよ」、「責任は取ってもらいます よ」と法律(ほうりつ)の名の下(もと)で、「自由」を制限し、「ここまでは良いが、これから先 は許しませんよ」と「自由」の範囲が決められています。

つまり、「自由と責任」は表裏一体(ひょうりいったい)であると、法律は私たちにしっかり 「釘(くぎ)」を刺(さ)しています。
そのため、私たちは毎日、自由に生きている反面、常に「社会的責任」を負(お)わされている、ということになります。

現在、世界には独裁国家と言われる国があり、あらゆる生活場面で「自由」が制限され、 窮屈(きゅうくつ)な生活を送っている人たちにとっては、羨(うらや)ましい限りの国であることは、間違いありません。

ところで、「責任」には、法律や規則で定められた「法的責任」があることは誰でも知っています。
民法という法律で定められている「何人(なんびと)たりとも、他人に迷惑をかけたり、社 会の「公序良俗(こうじょりょうぞく)」に反してはいけない」という「責任」があります。

このことは、「心が折れない悩み方」のポイントのひとつである「自分も他人も憂うつ になるような生き方をしない」ということを言っています。
そのため、私たちは、いつ、いかなるときでも常に我が身の「取り扱い」には十分、気 をつけて生活しなければなりません。

また、社会には「法的責任」のほかにもうひとつ、「道義的(どうぎてき)責任」と言われる やっかいな「責任」があります。

「道義(どうぎ)」とは、「道徳のみちすじ」とか「人の行うべき、正しい道」(広辞苑より) と言われ、法的に強制される「法的責任」と違って、「道義的責任」とは、人それぞれの 「道義感覚」に基づいて果たす「責任行為」です。

しかし、常識やマナー、道徳観や倫理観、また、「良心(りょうしん)」などの解釈は、一人 ひとりの「ものごとや出来事に対する解釈の仕方」によって違いがあるため、極端(きょく たん)に言えば、「責任」を感じる人がいる反面、「責任」を感じない人もいるので、「道義的 責任」は非常にあいまいな「責任概念(せきにんがいねん)」と言われています。

そのせいか、私たち人間社会のトラブルや争いごとなど、問題の原因の多くは、人とし ての「道義的責任」を果たさないところにある、と言っても過言(かごん)ではありません。

一刀両断(いっとうりょうだん)、有無(うむ)を言わさず、裁(さば)かれる「法的責任」とは違 い、一人ひとりの「道義感覚」でいかようにでもなる「道義的責任」のあいまいさに、真 面目に、正直に、素直に、そして謙虚に生きている人は、「歯がゆさ」と「無力感」を感じ ているはずです。

さらに、「責任」と名のつくものには、「法的責任」や「道義的責任」のほか、「任命責 任」や「説明責任」など、「自由」であるが故(ゆえ)の「責任」はあらゆる生活場面の中にあり、総(そう)じて「社会的責任」と言われています。

社会的自立の「自立」とは、言い換えれば「自律(じりつ)」であり、「自らを律(りっ)する」 ことであり、責任放棄(せきにんほうき)や責任逃(せきにんのが)れなど、無責任な態度を慎(つつし)み、負うべき「責任」をしっかり果たすことを言っています。

「自由と責任」は「表裏一体(ひょうりいったい)」であり、自分に関するすべてに「責任 が伴う」ことを忘れず、その上で大いに「自由」を楽しむことです。

何かにつけ、とってつけたような言い訳をしたり、自分の世界でしか通用しない考えや 論理を持つ「自己中心的」な人や、同じ過(あやま)ちを繰り返しながら平然(へいぜん)として いる人。何をするにも億劫(おっくう)で、人をあてにし、頼る人。「謝(あやま)ればそれで済 むと思っている人など、世間には「困った人」と言われる人がたくさんいます。

その人たちに共通しているのは、「無責任」という責任感覚がないことです。

自分も他人も憂うつにならない生き方や、「心が折れない」生き方を仮に提案したとしても、「無責任」な人には、はじめから「無縁」な話で、残念ながら「猫に小判(こばん)」、 「馬耳東風(ばじとうふう)」、「蛙(かえる)の面(つら)に小便(しょうべん)」、何を言っても聞かせても「無理、無駄、無意味」の人たちです。

人生は、「ごめん」、「すまん」、「悪(わ)りぃー」、 だけでは済(す)まされない。 恥(はじ)を知り、 誇(ほこ)りをもって、 責任をとる。

自由には、楽(らく)を求める自由とか、 不快(ふかい)を避(さ)ける自由とか、 何(なん)でもできる自由とか、 何(なん)にもしない自由など、 いろんな自由があるけれど、

最も大事な「自由」とは、 自由を上手に使い分け、 自分を活(い)かす『自由さ』に、 変えて行かなきゃなりません。

気の向くままに好き放題、 自由に生きてもいいけれど、 結果はどうあれ、何であれ、 すべての「責任」取るという、 「自由」に対するお返しは、 絶対、忘れてなりません。

❖社会的自立に向けて。その③「自己責任」とは。

わが国、日本は誠に「自由」な国であり、言論の自由や表現の自由、学問の自由など、憲法(けんぽう)で保証されている「自由」がたくさんあります。

こんなにも「自由」があってほんとうに良いのだろうかと、多少(たしょう)、遠慮(えんり ょ)する気持ちもないわけではないが、しかし、我が国は間違いなく「自由主義国家」です。

しかし、我が国は自由主義国家であると同時に、法事国家(ほうじこっか)でもあり、「何を するにも自由だが、その結果の責任はきちんと取りなさいよ」、「責任は取ってもらいます よ」と法律(ほうりつ)の名の下(もと)で、「自由」を制限し、「ここまでは良いが、これから先 は許しませんよ」と「自由」の範囲が決められています。

つまり、「自由と責任」は表裏一体(ひょうりいったい)であると、法律は私たちにしっかり 「釘(くぎ)」を刺(さ)しています。
そのため、私たちは毎日、自由に生きている反面、常に「社会的責任」を負(お)わされて いる、ということになります。

現在、世界には独裁国家と言われる国があり、あらゆる生活場面で「自由」が制限され、 窮屈(きゅうくつ)な生活を送っている人たちにとっては、羨(うらや)ましい限りの国であるこ とは、間違いありません。

ところで、「責任」には、法律や規則で定められた「法的責任」があることは誰でも知っ ています。
民法という法律で定められている「何人(なんびと)たりとも、他人に迷惑をかけたり、社 会の「公序良俗(こうじょりょうぞく)」に反してはいけない」という「責任」があります。

このことは、「心が折れない悩み方」のポイントのひとつである「自分も他人も憂うつ になるような生き方をしない」ということを言っています。
そのため、私たちは、いつ、いかなるときでも常に我が身の「取り扱い」には十分、気 をつけて生活しなければなりません。

また、社会には「法的責任」のほかにもうひとつ、「道義的(どうぎてき)責任」と言われる やっかいな「責任」があります。

「道義(どうぎ)」とは、「道徳のみちすじ」とか「人の行うべき、正しい道」(広辞苑より) と言われ、法的に強制される「法的責任」と違って、「道義的責任」とは、人それぞれの 「道義感覚」に基づいて果たす「責任行為」です。

しかし、常識やマナー、道徳観や倫理観、また、「良心(りょうしん)」などの解釈は、一人 ひとりの「ものごとや出来事に対する解釈の仕方」によって違いがあるため、極端(きょく たん)に言えば、「責任」を感じる人がいる反面、「責任」を感じない人もいるので、「道義的 責任」は非常にあいまいな「責任概念(せきにんがいねん)」と言われています。

そのせいか、私たち人間社会のトラブルや争いごとなど、問題の原因の多くは、人とし ての「道義的責任」を果たさないところにある、と言っても過言(かごん)ではありません。

一刀両断(いっとうりょうだん)、有無(うむ)を言わさず、裁(さば)かれる「法的責任」とは違 い、一人ひとりの「道義感覚」でいかようにでもなる「道義的責任」のあいまいさに、真 面目に、正直に、素直に、そして謙虚に生きている人は、「歯がゆさ」と「無力感」を感じ ているはずです。

さらに、「責任」と名のつくものには、「法的責任」や「道義的責任」のほか、「任命責 任」や「説明責任」など、「自由」であるが故(ゆえ)の「責任」はあらゆる生活場面の中に あり、総(そう)じて「社会的責任」と言われています。

社会的自立の「自立」とは、言い換えれば「自律(じりつ)」であり、「自らを律(りっ)する」 ことであり、責任放棄(せきにんほうき)や責任逃(せきにんのが)れなど、無責任な態度を慎(つつ し)み、負うべき「責任」をしっかり果たすことを言っています。

「自由と責任」は「表裏一体(ひょうりいったい)」であり、自分に関するすべてに「責任 が伴う」ことを忘れず、その上で大いに「自由」を楽しむことです。

何かにつけ、とってつけたような言い訳をしたり、自分の世界でしか通用しない考えや 論理を持つ「自己中心的」な人や、同じ過(あやま)ちを繰り返しながら平然(へいぜん)として いる人。何をするにも億劫(おっくう)で、人をあてにし、頼る人。「謝(あやま)ればそれで済 むと思っている人など、世間には「困った人」と言われる人がたくさんいます。

その人たちに共通しているのは、「無責任」という責任感覚がないことです。

自分も他人も憂うつにならない生き方や、「心が折れない」生き方を仮に提案したとし ても、「無責任」な人には、はじめから「無縁」な話で、残念ながら「猫に小判(こばん)」、 「馬耳東風(ばじとうふう)」、「蛙(かえる)の面(つら)に小便(しょうべん)」、何を言っても聞かせて も「無理、無駄、無意味」の人たちです。

人生は、「ごめん」、「すまん」、「悪(わ)りぃー」、 だけでは済(す)まされない。 恥(はじ)を知り、 誇(ほこ)りをもって、 責任をとる。

自由には、楽(らく)を求める自由とか、 不快(ふかい)を避(さ)ける自由とか、 何(なん)でもできる自由とか、 何(なん)にもしない自由など、 いろんな自由があるけれど、

最も大事な「自由」とは、 自由を上手に使い分け、 自分を活(い)かす『自由さ』に、 変えて行かなきゃなりません。

気の向くままに好き放題、 自由に生きてもいいけれど、 結果はどうあれ、何であれ、 すべての「責任」取るという、 「自由」に対するお返しは、 絶対、忘れてなりません。

代表・矢吹孝志(やぶきたかし) 福島県生まれ

*MHPC代表、健康・教育カウンセラー
*レジリエンスセラピスト
*公立学校共済組合福島県支部「こころのケア事業」
 ・委託カウンセラー
*ティーペック(株)東京/大阪 ・委託カウンセラー
*システムブレーン/ライセンスアカデミー(講師派遣会社)
 ・登録講師
*NPO法人・日本フリースクール協会理事

書籍案内

「子どもは親を選べない」
幻冬舎ルネッサンス

「心の病はこうして直す」
文芸社

「余意の生き方」
現代書林

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