21.「節」という意味を考える。

「節(せつ)」という意味を考える。

ここで言う「節」とは、「節度(せつど)」であり、度を越さない適当な「ほどよい頃合(ころあ)い」であって、ひとつの「限度」であると解釈されます。
つまり、これ以上は超(こ)えられない程度や範囲が「限度」であって、節度は、限度内の「ほどよい度(ど)合い」や「頃合い」を言っています。

ところで、現代社会の「豊かさ」がこの節度や限度感覚を、ますます曖昧(あいまい)にし ています。
食べたい時に好きなだけ食べられる、仕事も汗(あせ)して、あくせく働くことはない、手 抜きをしても誰もとがめない、物が壊れたら新しい物がいつでも買えるなど、とにかく現 代社会の「豊かさ」は、私たちを精神的に堕落(だらく)させ、節度や限度の境界を曖昧(あい まい)にする、この上なく都合(つごう)が良い「きっかけ」になっています。

そして、「豊かさ」の本質をはき違えて解釈している私たちの多くは、目先の「豊かさ」 に溺(おぼ)れて「感情鈍麻(かんじょうどんま)」の状態に陥(おちい)っています。

人間関係において節度や限度感覚がないと、気配りや心配りをはじめ、協調するとか我 慢をしたり、耐えることをしないなど、自己中心的な傾向が強くなるため、人とのトラブ ルが多く、最悪の場合、事故や事件に巻き込まれ、自らの命を落とし兼ねません。

「豊かさ」を生かすも殺すも「その人次第(ひとしだい)」であって、豊かさを更なる成長 の糧(かて)にするか、それとも堕落(だらく)の元にするかは、「本人の考え方」ひとつにかか っています。

ここで、日々の生活で誰でも簡単に節度や限度感覚が身につく言葉を紹介します。 それは、「いつもは不可能、今は可能」という言葉をキーワードにします。

例えば、人から頼まれごとがあり、それに応(こた)えようとする時「いつもはできない が、今回は引き受けます」とか、子どもにお金を与(あた)える時は「いつもはあげられない が、今回はあげる」と言うように話せば、相手に節度や限度感覚が生まれます。

ところで、節度や限度感覚が解らないとか、その自覚がないということは、「もっと、欲 しい」とか、「まだまだ、足りない」と節度や限度を超(こ)えて欲しがるリスクと、反対に、 「もういいでしょう」とか、「これで十分、もうやらない!!」など、自分の都合でやめた り、中途半端(ちゅうとはんぱ)な形で投げ出してしまうリスクが生じます。

いずれにしろ、節度や限度感覚を持たないで生きることは、人間関係も含め、生活全体 に悪影響を及ぼす恐れがあるため、しっかり身につけておかなければなりません。

また、自分が旅行に行く時は「いつもは出かけられないだろう、しかし、今回、旅行で きるのは幸せなことだ」とか、食堂やレストランでは「外食はいつもは無理だが、今、こ んなに旨(うま)い肉料理が食べられる、感謝だ」と自分に話しかけることで、自らの節度や 限度感覚を高めることができます。

さらに、買い物に出かけた先では「あれば良いものは、なくても良い!!、なくてはならないものを買う」と一言つぶやけば、衝動(しょうどう)買いは起きません。

豊かさに甘(あま)んじ、節度や限度感覚をあいまいにしている人には想像できないでしょうが、現在、我が国では「豊かな国の深刻な問題」として、「所得格差」や「貧困問題」 が大きな社会問題になっています。

貧困で苦しむ「彼ら」が今、どのような思いで生活をしているのか、想像しながら自らの節度や限度感覚はどうか、を考える必要があります。

「いつまでも、あると思うな、親と金」や、過去の太平洋戦争当時の「欲しがりません、 勝つまでは」という言葉は、現代人にはピンとこないかもしれませんが、「節度や限度を、 わきまえなさい!!」という、戒(いまし)めの意味を持つ言葉です。

つまり、「ないものねだり」をしてはけないと、教える言葉です。
この「節」の項で大切なことは、私たちが悩んでいる時や、日々の生活が停滞している 時、自分の「節度や限度感覚」はどうか、ということを確認する良い機会であるというこ とです。

物に例えれば「まだ十分に残っている」という「思い」にこだわり続けたり、確認した わけでもないのに、「残っているだろう」と勝手に思い込み、決めつけているような場合、 節度や限度に対する感覚が「鈍(にぶ)い」状態になっています。

つまり、節度や限度に対する感覚が敏感(びんかん)ないし、正常(せいじょう)でないと、あ らゆることに対し、自分に都合よく「思い込んでは、決めつける」ため、その結果、悩み やストレスを抱え、メンタル不調に陥(おちい)る原因を自らつくることになるから、気をつ けなければなりません。

さらに、「快を求めて、不快を避ける」基本的欲求(本能)に従って生きる私たちにとって、 「節度や限度」という欲求を抑制(よくせい)したり、禁止する機能がはたらかないと、「欲求 任(よっきゅうまか)せ」の分別(ふんべつ)がつかない生き方になるので、日頃から意識的に「あ あなりたい(快を求める)」とか、「あのようには、なりたくない(不快を避ける)」という、 「欲求のレベルを低く」、同時に「忍耐のレベルを高く」して生きることを心掛けなければなりません。

欲求のレベルを低く、 忍耐のレベルを高く、生きたなら、 「今(いま)」、あるものや、 「今」、いるところ、 「今」の自分に満足し、 「ないものねだり」はいたしません。

人生は、 「今(いま)」を生きてる時間です。 過(す)ぎた昔(むかし)を悔(く)やんだり、 先の未来を不安がり、 生きるものではありません。

「今」を大事に生きていりゃ、 健康、生きがい、幸(しあわ)せは、 願わず、すがらず、求めずとも、 それでも自然に、やって来る。

節度感覚や限度感覚は、このような日頃の努力によって身につくものと考えなくてはなりません。
でなければ、節度感覚は乱(みだ)れに乱れ、限度感覚は「天井(てんじょう)知らず」の「うなぎ登(のぼ)り」になって、誰からも相手にされない不幸な人生を送ることになります。

ちなみに「節(せつ)」と名の付く言葉には、季節(きせつ)、節分(せつぶん)、節々(ふしぶし)、 などがあり、「ほど良い頃合い」のほか、「分ける」とか「区切る」という意味もあります。

「節(せつ)」という意味を考える。

ここで言う「節」とは、「節度(せつど)」であり、度を越さない適当な「ほどよい頃合(ころあ)い」であって、ひとつの「限度」であると解釈されます。
つまり、これ以上は超(こ)えられない程度や範囲が「限度」であって、節度は、限度内の「ほどよい度(ど)合い」や「頃合い」を言っています。

ところで、現代社会の「豊かさ」がこの節度や限度感覚を、ますます曖昧(あいまい)にしています。
食べたい時に好きなだけ食べられる、仕事も汗(あせ)して、あくせく働くことはない、手 抜きをしても誰もとがめない、物が壊れたら新しい物がいつでも買えるなど、とにかく現 代社会の「豊かさ」は、私たちを精神的に堕落(だらく)させ、節度や限度の境界を曖昧(あい まい)にする、この上なく都合(つごう)が良い「きっかけ」になっています。

そして、「豊かさ」の本質をはき違えて解釈している私たちの多くは、目先の「豊かさ」 に溺(おぼ)れて「感情鈍麻(かんじょうどんま)」の状態に陥(おちい)っています。

人間関係において節度や限度感覚がないと、気配りや心配りをはじめ、協調するとか我 慢をしたり、耐えることをしないなど、自己中心的な傾向が強くなるため、人とのトラブ ルが多く、最悪の場合、事故や事件に巻き込まれ、自らの命を落とし兼ねません。

「豊かさ」を生かすも殺すも「その人次第(ひとしだい)」であって、豊かさを更なる成長 の糧(かて)にするか、それとも堕落(だらく)の元にするかは、「本人の考え方」ひとつにかか っています。

ここで、日々の生活で誰でも簡単に節度や限度感覚が身につく言葉を紹介します。 それは、「いつもは不可能、今は可能」という言葉をキーワードにします。

例えば、人から頼まれごとがあり、それに応(こた)えようとする時「いつもはできない が、今回は引き受けます」とか、子どもにお金を与(あた)える時は「いつもはあげられない が、今回はあげる」と言うように話せば、相手に節度や限度感覚が生まれます。

ところで、節度や限度感覚が解らないとか、その自覚がないということは、「もっと、欲 しい」とか、「まだまだ、足りない」と節度や限度を超(こ)えて欲しがるリスクと、反対に、 「もういいでしょう」とか、「これで十分、もうやらない!!」など、自分の都合でやめた り、中途半端(ちゅうとはんぱ)な形で投げ出してしまうリスクが生じます。

いずれにしろ、節度や限度感覚を持たないで生きることは、人間関係も含め、生活全体 に悪影響を及ぼす恐れがあるため、しっかり身につけておかなければなりません。

また、自分が旅行に行く時は「いつもは出かけられないだろう、しかし、今回、旅行で きるのは幸せなことだ」とか、食堂やレストランでは「外食はいつもは無理だが、今、こ んなに旨(うま)い肉料理が食べられる、感謝だ」と自分に話しかけることで、自らの節度や 限度感覚を高めることができます。

さらに、買い物に出かけた先では「あれば良いものは、なくても良い!!、なくてはなら ないものを買う」と一言つぶやけば、衝動(しょうどう)買いは起きません。

豊かさに甘(あま)んじ、節度や限度感覚をあいまいにしている人には想像できないでし ょうが、現在、我が国では「豊かな国の深刻な問題」として、「所得格差」や「貧困問題」 が大きな社会問題になっています。

貧困で苦しむ「彼ら」が今、どのような思いで生活をしているのか、想像しながら自ら の節度や限度感覚はどうか、を考える必要があります。

「いつまでも、あると思うな、親と金」や、過去の太平洋戦争当時の「欲しがりません、 勝つまでは」という言葉は、現代人にはピンとこないかもしれませんが、「節度や限度を、 わきまえなさい!!」という、戒(いまし)めの意味を持つ言葉です。

つまり、「ないものねだり」をしてはけないと、教える言葉です。
この「節」の項で大切なことは、私たちが悩んでいる時や、日々の生活が停滞している 時、自分の「節度や限度感覚」はどうか、ということを確認する良い機会であるというこ とです。

物に例えれば「まだ十分に残っている」という「思い」にこだわり続けたり、確認した わけでもないのに、「残っているだろう」と勝手に思い込み、決めつけているような場合、 節度や限度に対する感覚が「鈍(にぶ)い」状態になっています。

つまり、節度や限度に対する感覚が敏感(びんかん)ないし、正常(せいじょう)でないと、あ らゆることに対し、自分に都合よく「思い込んでは、決めつける」ため、その結果、悩み やストレスを抱え、メンタル不調に陥(おちい)る原因を自らつくることになるから、気をつ けなければなりません。

さらに、「快を求めて、不快を避ける」基本的欲求(本能)に従って生きる私たちにとって、 「節度や限度」という欲求を抑制(よくせい)したり、禁止する機能がはたらかないと、「欲求 任(よっきゅうまか)せ」の分別(ふんべつ)がつかない生き方になるので、日頃から意識的に「あ あなりたい(快を求める)」とか、「あのようには、なりたくない(不快を避ける)」という、 「欲求のレベルを低く」、同時に「忍耐のレベルを高く」して生きることを心掛けなければなりません。

欲求のレベルを低く、 忍耐のレベルを高く、生きたなら、 「今(いま)」、あるものや、 「今」、いるところ、 「今」の自分に満足し、 「ないものねだり」はいたしません。

人生は、 「今(いま)」を生きてる時間です。 過(す)ぎた昔(むかし)を悔(く)やんだり、 先の未来を不安がり、 生きるものではありません。

「今」を大事に生きていりゃ、 健康、生きがい、幸(しあわ)せは、 願わず、すがらず、求めずとも、 それでも自然に、やって来る。

節度感覚や限度感覚は、このような日頃の努力によって身につくものと考えなくてはな りません。
でなければ、節度感覚は乱(みだ)れに乱れ、限度感覚は「天井(てんじょう)知らず」の「う なぎ登(のぼ)り」になって、誰からも相手にされない不幸な人生を送ることになります。

ちなみに「節(せつ)」と名の付く言葉には、季節(きせつ)、節分(せつぶん)、節々(ふしぶし)、 などがあり、「ほど良い頃合い」のほか、「分ける」とか「区切る」という意味もあります。

代表・矢吹孝志(やぶきたかし) 福島県生まれ

*MHPC代表、健康・教育カウンセラー
*レジリエンスセラピスト
*公立学校共済組合福島県支部「こころのケア事業」
 ・委託カウンセラー
*ティーペック(株)東京/大阪 ・委託カウンセラー
*システムブレーン/ライセンスアカデミー(講師派遣会社)
 ・登録講師
*NPO法人・日本フリースクール協会理事

書籍案内

「子どもは親を選べない」
幻冬舎ルネッサンス

「心の病はこうして直す」
文芸社

「余意の生き方」
現代書林

MHPCマインドヘルスパーソナリティセンター
〒963-8813 福島県郡山市芳賀2丁目21-10
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