04.納得するための「気づき」とは。「当然観念」
❖正しく「諦(あきら)める」ことが「心が折れない悩み方」になる。
ここで、仮に悩みを抱えても、悩み続けないために「諦(あきら)める」という特効薬(とっこうやく)があることを紹介します。
日本語で諦めると言えば、「負け犬みたいにその場から逃げ出す」とか、「抵抗、空(むな) しく、退散(たいさん)する」というようなネガティブなイメージで解釈されますが、「諦める」というほんとうの意味は、いささか違います。
漢字の本家は「中国」です。 中国で「諦める」という言葉は、「諦観(ていかん)」という言葉でも解かるように、「明らか」 という意味で使われています。
「明らか」とは、「はっきりしている」とか「事実である」、「明確である」、「真理(しんり) である」「動かし難(がた)いもの」「反発、反抗できないもの」、「逆らえないもの」などの意 味があり、さらに、「明らか」という言葉には、「絶対的」というニュアンスがあります。
つまり、悩みに対する特効薬は、「諦める」ことであると言った理由は、後で詳しく説明 しますが、ここでは「あの時、ああしていたら、こうしていれば」と悔やんだり嘆(なげ)い ても、それは、「明らかなこと」に対する無駄な抵抗だから、逆(さか)らわずにあるがまま 「受け入れましょう」という意味です。
あの時、ああしていたならば、 こうしてれば良かったと、 いくら悔(く)やんで嘆(なげ)いても、 あとの祭りと言うべきか、 悲しいことに現実は、 正に「そうしていた」わけで、 過ぎた時間は戻りません。
専売特許じぁあるまいし、悩みを抱えている人が 昼夜を問わず、口にする、 「たら、れば」言葉は、 言わないで、 この際、すっきり、潔(いさぎよ)く、 「諦める」しかありません。
また、ここでの「諦める」とは、一般的な「もうどうでもいいや、諦めよう!!」という 投げやり、捨てバチ的な物言(ものい)いではなく、現実を正しく認識した上での「心の悟(さ と)り」や「心の潔(いさぎよ)さ」であり、正に「気づき」とか、「気づく」という高度な精 神状態を表しています。
そしてそこには、現実をあるがままに「受け入れる心」があるだけで、一切の「こだわりやとらわれ感」、「思い込みや決めつけ感」はありません。
❖納得するための「気づき」とは。その①当然観念(とうぜんかんねん)
日々の生活で私たちはさまざまな出来事やことがらについて、自ら気づいたり、気づかされたりしながら生きています。
一般的に「気づき」や「気づく」ということは、「納得する」とか「深く理解する」、「合点(がてん)がいく」ということで、そこには批判や批評、反抗や反発するような思いや感情 はなく、現実、または今、起きている状況をあるがまま受け入れるという「絶対受容(ぜっ たいじゅよう)」の心があります。
この「絶対受容」の心が、私たちのさまざまな「悩み」を解決、もしくは克服し、生き るパワーに変える「心が折れない・悩み方」の根幹(こんかん)を支えています。
人生とは、「受け入れる」時間の連続と言っても、過言(かごん)ではありません。
では、「絶対受容」の心を導く「気づき」とは、一体どのようなことなのでしょうか。
私たちが「ああそうか、なるほどなぁ」と心から気づくには「当然観」という「観念」 を持たなければなりません。
当然観とは、「因果的必然(いんがてきひつぜん)、当然の法則」に基づく考え方や捉え方、 受け止め方であり、あらゆる出来事やものごとの結果は「必然、当然」という「経過や過 程」の中で生まれるため、「起こるべくして起こった、成るべくして成った」「当然の結果 である」と解釈する「思いや感情」です。
人生に、 「偶然(ぐうぜん)」なんてひとつもない。 出会うべきものと、 出会うべくしてあったのです。
「こんなわけでは、なかった」 「こんなはずでは、なかった」と嘆いても、 現実は悲しいかな、 すべて「こんなわけだった」し、 「こんなはずだった」・・のです。 この意味、 解かる?
仮に、失敗したとしましょう。
解かりやすく言えば、失敗に至(いた)る原因やきっかけが何であれ、失敗するようなやり方 をしたとか、又は「失敗して当然」という「経過や過程」があったと自覚(じかく)します。
この「起こるべくして起こった、成るべくして成った、当然の結果である」という当然 観は、悩んでいる人の心の落ち込みをストップさせる強いメッセージになります。
常に、観念行動の法則(観念に基づいて行動する)に則(のっと)り、生きている私たちにと って「当然の結果である」と解決する当然観念の前では、「あの時、ああしていたら、こうしていれば」の「たら、れば思考」や「もしかしたら○○かもしれない」という根拠のな い「不満や不安」は存在しなくなります。
ところで、悩みに対する特効薬は「諦める」ことであると言った理由は、すべての出来事やものごとは「起こるべくして起こった、成るべくして成った」当然の結果であるとい う「明らかな事実」であるため、「諦めること」つまり、あるがままに受け入れなければな らない、ということです。
ちなみに、「ありのまま」と「あるがまま」の言葉の違いは何かという質問に対し、日本 一の山である富士山を例に説明すると、写真や額縁(がくぶち)に収(おさ)まっている、「動きのない一定の姿」の富士山が「ありのままの富士」と言われています。
しかし、実際、現地で見る富士山は、山頂に雲がかかっていたり、秋は紅葉に映(は)え、 冬は雪に覆(おお)われていたり、また、雲ひとつない晴天の時は雄大な姿を見せるなど、一 時(いっとき)たりとも、いつも同じ姿を見ることはありません。
そうしたさまざまな姿に常に変化する富士山が「あるがままの富士」と言われています。
私たちも日々の生活では、晴れの日があれば雨の日があるように気候など自然環境の影 響をはじめ、人間関係や仕事の悩みなどで、気持ちや感情など精神面や身体的・行動面に おいて、いつも同じ状態でいるわけではありません。
ですから、大事なことは自分に関わるその時々の問題や状況を「あるがまま」に受け入 れる必要がある、ということです。
この「ありのまま」と「あるがまま」について、あくまで私見(しけん)であり、「言葉遊 び」と言われても仕方(しかた)ありませんが、もしかしたら私たちにとって「ありのまま」 の姿や状態というのは、富士山の話でも解かるように、「○○はこうでなければならない」 とか、「◇◇はこうあるべき」、さらに、「□□はこうすべき」と自分の世界で勝手に決め つけたり、思い込んでいることが根拠になっているのかもしれません。
さらに、そうした決めつけや思い込みにこだわり、とらわれていると考えれば、自ら想 像したり、期待する「自分にとってのありのまま」の姿と、常に変化している「あるがま ま」の姿の違いに気づくことができます。
「あるがまま」という姿や状況は、富士山の話や日々の生活場面での人間関係や出来事 でも解かるように、常に一定ではなく、変化しています。
つまり、自分で勝手に思い込んだり、決めつけている、いわゆる「自分にとってのありのまま」の姿や状況と、実際、起きている姿や状況が異(こと)なるため、私たちはそのギャ ップに違和感(いわかん)を持ち、そのことで不満を感じたり不安になって悩むなど、心に葛 藤(かっとう)が生じている、と考えれば、「あるがままに受け入れる」という重要さが、良く 理解できます。
あらゆる出来事やものごとの結果は「起こるべくして起こった、成るべくして成った」 「当然の結果である」と、「あるがまま」に受け入れることができれば、おそらく無用な 悩みを抱えて苦しむことはないでしょう。
人生とは、「受け入れて、行動することで、変化をもたらす」時間の連続であり、幸か不 幸かは、その経過の中で感じる思いや感情であって、仮に不幸な時でも、あるがままに受 け入れて行動することで幸せになったり、幸せだからと何もしないでいると、とんでもな い不幸が舞い込んで来ます。
アメリカの哲学者エバレット(1820~1900)は「ありのままに見、ありのままに行動 できる者を、勇者(ゆうしゃ)と呼ぶ」と言っていますが、MHPC では「あるがままに見、あ るがままに行動できる者は、人生の達人である」と考えています。
メンタルサプリ「心が折れない悩み方」の文中で「あるがまま」という言葉を多用(たよう)する所以(ゆえん)は、ここにあるとともに、MHPC による「ありのまま」と「あるがま ま」の解釈にご理解頂ければ幸いです。
❖正しく「諦(あきら)める」ことが「心が折れない悩み方」になる。
ここで、仮に悩みを抱えても、悩み続けないために「諦(あきら)める」という特効薬(とっこうやく)があることを紹介します。
日本語で諦めると言えば、「負け犬みたいにその場から逃げ出す」とか、「抵抗、空(むな) しく、退散(たいさん)する」というようなネガティブなイメージで解釈されますが、「諦め る」というほんとうの意味は、いささか違います。
漢字の本家は「中国」です。 中国で「諦める」という言葉は、「諦観(ていかん)」という言葉でも解かるように、「明らか」 という意味で使われています。
「明らか」とは、「はっきりしている」とか「事実である」、「明確である」、「真理(しんり) である」「動かし難(がた)いもの」「反発、反抗できないもの」、「逆らえないもの」などの意 味があり、さらに、「明らか」という言葉には、「絶対的」というニュアンスがあります。
つまり、悩みに対する特効薬は、「諦める」ことであると言った理由は、後で詳しく説明 しますが、ここでは「あの時、ああしていたら、こうしていれば」と悔やんだり嘆(なげ)い ても、それは、「明らかなこと」に対する無駄な抵抗だから、逆(さか)らわずにあるがまま 「受け入れましょう」という意味です。
あの時、ああしていたならば、 こうしてれば良かったと、 いくら悔(く)やんで嘆(なげ)いても、 あとの祭りと言うべきか、 悲しいことに現実は、 正に「そうしていた」わけで、 過ぎた時間は戻りません。
専売特許じぁあるまいし、悩みを抱えている人が 昼夜を問わず、口にする、 「たら、れば」言葉は、 言わないで、 この際、すっきり、潔(いさぎよ)く、 「諦める」しかありません。
また、ここでの「諦める」とは、一般的な「もうどうでもいいや、諦めよう!!」という 投げやり、捨てバチ的な物言(ものい)いではなく、現実を正しく認識した上での「心の悟(さ と)り」や「心の潔(いさぎよ)さ」であり、正に「気づき」とか、「気づく」という高度な精 神状態を表しています。
そしてそこには、現実をあるがままに「受け入れる心」があるだけで、一切の「こだわ りやとらわれ感」、「思い込みや決めつけ感」はありません。
❖納得するための「気づき」とは。その①当然観念(とうぜんかんねん)
日々の生活で私たちはさまざまな出来事やことがらについて、自ら気づいたり、気づかされたりしながら生きています。
一般的に「気づき」や「気づく」ということは、「納得する」とか「深く理解する」、「合 点(がてん)がいく」ということで、そこには批判や批評、反抗や反発するような思いや感情 はなく、現実、または今、起きている状況をあるがまま受け入れるという「絶対受容(ぜっ たいじゅよう)」の心があります。
この「絶対受容」の心が、私たちのさまざまな「悩み」を解決、もしくは克服し、生き るパワーに変える「心が折れない・悩み方」の根幹(こんかん)を支えています。
人生とは、「受け入れる」時間の連続と言っても、過言(かごん)ではありません。
では、「絶対受容」の心を導く「気づき」とは、一体どのようなことなのでしょうか。
私たちが「ああそうか、なるほどなぁ」と心から気づくには「当然観」という「観念」 を持たなければなりません。
当然観とは、「因果的必然(いんがてきひつぜん)、当然の法則」に基づく考え方や捉え方、 受け止め方であり、あらゆる出来事やものごとの結果は「必然、当然」という「経過や過 程」の中で生まれるため、「起こるべくして起こった、成るべくして成った」「当然の結果 である」と解釈する「思いや感情」です。
人生に、 「偶然(ぐうぜん)」なんてひとつもない。 出会うべきものと、 出会うべくしてあったのです。
「こんなわけでは、なかった」 「こんなはずでは、なかった」と嘆いても、 現実は悲しいかな、 すべて「こんなわけだった」し、 「こんなはずだった」・・のです。 この意味、 解かる?
仮に、失敗したとしましょう。
解かりやすく言えば、失敗に至(いた)る原因やきっかけが何であれ、失敗するようなやり方 をしたとか、又は「失敗して当然」という「経過や過程」があったと自覚(じかく)します。
この「起こるべくして起こった、成るべくして成った、当然の結果である」という当然 観は、悩んでいる人の心の落ち込みをストップさせる強いメッセージになります。
常に、観念行動の法則(観念に基づいて行動する)に則(のっと)り、生きている私たちにと って「当然の結果である」と解決する当然観念の前では、「あの時、ああしていたら、こうしていれば」の「たら、れば思考」や「もしかしたら○○かもしれない」という根拠のな い「不満や不安」は存在しなくなります。
ところで、悩みに対する特効薬は「諦める」ことであると言った理由は、すべての出来 事やものごとは「起こるべくして起こった、成るべくして成った」当然の結果であるとい う「明らかな事実」であるため、「諦めること」つまり、あるがままに受け入れなければな らない、ということです。
ちなみに、「ありのまま」と「あるがまま」の言葉の違いは何かという質問に対し、日本 一の山である富士山を例に説明すると、写真や額縁(がくぶち)に収(おさ)まっている、「動き のない一定の姿」の富士山が「ありのままの富士」と言われています。
しかし、実際、現地で見る富士山は、山頂に雲がかかっていたり、秋は紅葉に映(は)え、 冬は雪に覆(おお)われていたり、また、雲ひとつない晴天の時は雄大な姿を見せるなど、一 時(いっとき)たりとも、いつも同じ姿を見ることはありません。
そうしたさまざまな姿に常に変化する富士山が「あるがままの富士」と言われています。
私たちも日々の生活では、晴れの日があれば雨の日があるように気候など自然環境の影 響をはじめ、人間関係や仕事の悩みなどで、気持ちや感情など精神面や身体的・行動面に おいて、いつも同じ状態でいるわけではありません。
ですから、大事なことは自分に関わるその時々の問題や状況を「あるがまま」に受け入 れる必要がある、ということです。
この「ありのまま」と「あるがまま」について、あくまで私見(しけん)であり、「言葉遊 び」と言われても仕方(しかた)ありませんが、もしかしたら私たちにとって「ありのまま」 の姿や状態というのは、富士山の話でも解かるように、「○○はこうでなければならない」 とか、「◇◇はこうあるべき」、さらに、「□□はこうすべき」と自分の世界で勝手に決め つけたり、思い込んでいることが根拠になっているのかもしれません。
さらに、そうした決めつけや思い込みにこだわり、とらわれていると考えれば、自ら想 像したり、期待する「自分にとってのありのまま」の姿と、常に変化している「あるがま ま」の姿の違いに気づくことができます。
「あるがまま」という姿や状況は、富士山の話や日々の生活場面での人間関係や出来事 でも解かるように、常に一定ではなく、変化しています。
つまり、自分で勝手に思い込んだり、決めつけている、いわゆる「自分にとってのありのまま」の姿や状況と、実際、起きている姿や状況が異(こと)なるため、私たちはそのギャ ップに違和感(いわかん)を持ち、そのことで不満を感じたり不安になって悩むなど、心に葛 藤(かっとう)が生じている、と考えれば、「あるがままに受け入れる」という重要さが、良く 理解できます。
あらゆる出来事やものごとの結果は「起こるべくして起こった、成るべくして成った」 「当然の結果である」と、「あるがまま」に受け入れることができれば、おそらく無用な 悩みを抱えて苦しむことはないでしょう。
人生とは、「受け入れて、行動することで、変化をもたらす」時間の連続であり、幸か不 幸かは、その経過の中で感じる思いや感情であって、仮に不幸な時でも、あるがままに受 け入れて行動することで幸せになったり、幸せだからと何もしないでいると、とんでもな い不幸が舞い込んで来ます。
アメリカの哲学者エバレット(1820~1900)は「ありのままに見、ありのままに行動 できる者を、勇者(ゆうしゃ)と呼ぶ」と言っていますが、MHPC では「あるがままに見、あ るがままに行動できる者は、人生の達人である」と考えています。
メンタルサプリ「心が折れない悩み方」の文中で「あるがまま」という言葉を多用(たよ う)する所以(ゆえん)は、ここにあるとともに、MHPC による「ありのまま」と「あるがま ま」の解釈にご理解頂ければ幸いです。
代表・矢吹孝志(やぶきたかし) 福島県生まれ
*MHPC代表、健康・教育カウンセラー
*レジリエンスセラピスト
*公立学校共済組合福島県支部「こころのケア事業」
・委託カウンセラー
*ティーペック(株)東京/大阪 ・委託カウンセラー
*システムブレーン/ライセンスアカデミー(講師派遣会社)
・登録講師
*NPO法人・日本フリースクール協会理事
MHPCマインドヘルスパーソナリティセンター
〒963-8813 福島県郡山市芳賀2丁目21-10
TEL 024-943-1678 FAX 024-943-1686
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