座禅の「禪」というものは。

☆座禅の「禅」というものは。

座禅の禅(禪)という文字は、 「」を「示す」と書くように、単純、なおかつ簡単な、 行動続ける大事さを、 座禅を通して教えます。

日々の暮らしで単純に、 くり返している行動は、吸って吐いてはまた吸って、 死ぬまで「続ける」呼吸です。

呼吸が止まればどうなるか、 すべての人は死ぬでしょう。

そういう意味で考えりゃ、 日々の暮らしや生活で、「続ける」ことの大事さを、 呼吸は教えているのです。

さらに加えて言うならば、 起床、飲食、排泄(はいせつ)や、睡眠という基本的、 生活リズムが崩れたら、仕事をしようが遊ぼうが、 何もしないでいようとも、すべての生活成り立たず、 生きてくことはできません。

ところで禅の高僧は、 座禅を通してもう既に、「無我の境地」や「無」の世界、 すべてを極めているはずと、我々、世間の凡人は、 思っているけど現実は、決してそうではありません。

代々続く禅寺で、 禅の修行を積む僧は、「悩み」の元の煩悩(ぼんのう)が、 存在しない「無の世界」、「無我の境地」を悟(さと)るため、 厳しい修行をしてるけど、悟るというのは困難で、 無理だと解っているみたい。

それでも決して諦めず、 修行を続けるその訳は、無理であろうと困難な、 場面であっても耐えながら、目的達成するために、 「努力」を重ねる姿こそ、 禅の教えであることを、 知っているから一心に、 厳しい修行を続けます。

継続するは力なり」。 禅の教えというものは、例えどんなにつらくても、 あるがままに受け入れて、幸せ求めていくための、 「努力」を続けていくことが、「人が生きる」ということの、 基本であると教えます。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

人生は「足し算」の連続‼

人生の時間というのは、「足し算」の連続なんだと心得る。

人生は「百人百様」それぞれに、 「足して引いたり、掛けたり割って」生きている。

しかし、まともな人生は、 まじめ、正直、素直さに、謙虚さ忘れずひたむきに、 「目先の一歩」の行動を、「足して」行かなきゃ、 なりません。

プラス思考が良いからと、 プラスの「足し算」重ねると、マンネリ思考に陥って、 危機や危険に気づかずに、いつか「墓穴」を掘るでしょう。

しかし、悩んでいる時は、 「たら、れば」思考に支配され、「ああしていれば、こうしたら」、 「こんなはずではなかった」と、過去の時間を「引く」ような、 後悔、愚痴を繰り返し、 消極的な生活を、余儀なくされているだけに、 状況変えていくために、行動起こす「足し算」の、 考え方を身につけて、日々の暮らしや生活を、 変えていくしかありません。

料理を味付けする際に、 甘さ辛さを変えたけりゃ、 水や砂糖を足すように、 変えるためには「足す」以外、 方法手段はないのです。

「足してもダメなら、足すものを、 変えて、も一度、足してみな!」「それでもダメなら、また足しな‼」・・・ってか。

足さない限り状況は、 いつまでたっても変わらない。

「行動」起こす「足し算」の 重ね着、上書きする中に輝く未来があるのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

言い訳する「訳」どんなわけ?

「言い訳」する「訳」、どんな「わけ」?

「突然、雨が降ったから、 Bまで行けなかった」とか、「やろうと思って始めたが、 途中で機械が故障して、 残念ながら諦めた」、一見、まともな話でも、 鵜呑みにしてはいけません。

Aの原因あったから、 Bできない」と言う人の、 最もらしい「言い訳」に、信憑性(しんぴょうせい)はありません。

もともと心の根っこには、 「やりたくない」とか「したくない」、そうした「心の目的」が、 先にあるため言い訳や、論理のすり替えするのです。

ほんとに「やりたい」「したい」という、 強い思いがあるならば、どんな理由があろうとも、 途中でやめたりしないもの。

いろんな方法、模索して、 やるべきことを果たすでしょう。

心理学者のアドラーは 、これを「見かけの因果律」、「原因論」と「目的論」、 その名で詳しく言ってます。

さらに加えて言うならば、 イヤな思いはしたくない 叱責、注意は受けたくない、人の意見は聞きたくない、まして自分が傷ついて、苦しい思いはしたくない。

「ない、ない」づくしのその中で、 「自分がよければそれでよい」、そのことだけを考えて、 何かにつけて言い訳や、論理のすり替えするのです。

いやはや脳というものは、 自分の保身のためならば、その場しのぎの言い訳や、 論理のすり替えするという、大した技(わざ)を持つのです。

生きてく上で「自己防衛」、 「自己保身」を図るのは、確かに大事であるけれど、 論理をすり替え、言い訳を、してまで「自分を守る」のは、 愚かなことじゃないですか。

論理のすり替え言い訳を、 なくすためには常日頃、何かを始めるその前に、 本気でやりたいことなのかできればやりたくないことか、 自分の心に向き合って、確認するといいみたい。

ちなみに、論理のすり替えや、 言い訳グセがついている、人というのは、「でも、だけど、 だって、どうせ」と言う言葉、好んで使うそのために、 すぐに見分けがつくでしょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

やぶのつぶやき決定版‼人が悩むということは。

人が「悩む」ということは、 「あの時ああしていたならば」、「こんなわけではなかった」と、 愚痴を吐いたり、悔恨の、思いにこだわり、とらわれる。

さらに加えて言うならば、 「この状態が続いたら」、「この先、一体どうなるの」、 不安な思いが湧き上がり、「きっと、おそらくそうなる」と、 自分勝手に思い込み、一方的に決めつける。

悩みを抱えている人の、 共通パターンというものは、「不満」な思いや感情に、 こだわり続けてとらわれて、「不安」な思いや感情を、 「もしかしたらそうなる」と、思い込んでは決めつける。

悩みを抱えている時は、 常に気分は憂うつで、起きる時間に起きられず、 食べる時間に食べられず、やるべきことができなくて、 日々の生活行動が、 停滞、後退するのです。

子どもであれば不登校や、 大人は就労困難に、陥り解雇をされるとか、 子どもは退学処分など、新たな悩みが加わって、 苦しむことになるのです。

そして最後は「無気力」や、 極度の精神不安から、「医療の援助」を受けるとか、 「反社会的行動」を、余儀なくされてしまうなど、 三つのリスクを負いながら、生きて行くしかありません。

ならば、「悩み」を速やかに、 解決していく方法を、「悩み」と向き合い半世紀、 その経験を基にして、不肖、「やぶ」のひとりごと、 つぶやくことに致しましょう。

そもそも「悩み」というものは、 生きるためには必要で、なくすものではありません。なくなるものでもありません。

むしろ成長するために、 悩みは欠かせぬ「必需品」。夢や希望を叶えたり、 幸せ求めて生きるには、あれやこれやと模索して、 試行錯誤をくり返し、悩まなければなりません。

「悩み」があるから人々は、 幸せつかんで朗らかな、 明るい日々が送れます。

「悩み」と言うのは不可能を、 可能にできる「優(すぐ)れもの」、明るい未来を切り開く、 「心の刃(やいば)」になるのです。

「そのうち何とかなるだろう」,「どうせ、今さら何になる」、平和ボケした考えで、 のんべんだらりと生きていりゃ、やがて不幸を招き入れ、 侘しい日々を送るでしょう。 

いわゆる「悩み」の中味には、 プラスの意味や価値を持ち、活力与えるポジティブな、 悩みもあれば反対に、停滞招くネガティブな、 ふたつの悩みがありまして、問題なのはマイナスの、 意味や価値持つネガティブな、悩みを抱えてウダウダと、 生きてちゃダメと言うのです。

幸、不幸の分かれ道、 分岐にあるのは「悩み方」、 どちらを選んで進むかは、 「あなた」の希望でご自由に、 どちらの道も選べます。

ところで悩みを速やかに、 解決するには「あるがまま、受け入れる」という究極の、 「受容の心」が欠かせません。

「たら、れば」思考で悔やんでも、 すべての物ごと出来事は、「起こるべくして起こるもの」、 「成るべくして成った」という、当然観に基づいた、 考え方や捉え方、 受け止め方が必要です。

さらに加えて言うならば、 行動起こしていくために、ピンチはチャンスと言うように、 両面観をはたらかせ、その時々の状況の、 中からプラスの意味や価値、見出す努力をしたならば、 「目先の一歩」を歩むのに、大きな力になるでしょう。

そして最後は「自信」です。おっかなびっくり生きてても、 何の役にも立ちません。

自信というのは字の如く、 自分を信頼することで、自分の持ってる可能性、 ひたすら信じて期待する。

さらに自分に対しては、 「かけがえのない存在」と、自分を大事にするならば、 どんな時でもくじけずに、「目先の一歩」は末永く、 歩み続けることでしょう。 

当然観に両面観、 肯定観の「三つ矢」、束ねて生きていくならば、 現代社会のストレスに、打ち克ち、逆境乗り越えて、どんな過酷な困難にも、へこたれないで生きて行く、 「折れない心」が育まれ、心的挫折を予防する、 「知的武装」が叶うでしょう。

人が生きるということは、 たとえどんなに辛くても、あるがままに受け入れて、 その時、「できる行動」を、続けることで状況を、 変えていく時間の連続が、 人生なんだと心得る。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

                     無断転載、引用はお控え下さい。

 

 

繁栄は心が反映しています。

「繁栄」は豊かな心の「反映」です。

広く世間を見渡せば、 いろんな家が建ってます。

日々、繁栄を繰り返し、 代々、続いている家や、昨日の栄華はウソのよう、 一夜で衰退する家や、裕福、貧乏、縁がなく、 地味で質素で建っている、鳴かず飛ばずの家もある。

同じ家でもこの「違い」、 一体、どこにあるのでしょう。

言葉遊びじゃないけれど、 同じ読み名の「繁栄」と、「反映」の字は仲良しで、 切っても切れない縁がある。

「繁栄」するかしないかは、 考え方や捉え方、受け止め方や「思い」など、 その人自身の内にある、心が「反映」するのです。

何を感じてどう思い、 どんな気持ちで生きてるか、見えない心の「反映」が、 見える「繁栄」映し出す。

まじめ、正直、素直さと、 謙虚な気持ちが支えてる、豊かな心の「反映」が、 すべての人が求めてる、健康、幸福、生きがいの、 三つの「繁栄」 与えます。

ちなみに心がひねくれて、 怠けたものであるならば、「繁栄」どころかその人に、 不幸が「反映」されるでしょう。

幸も不幸も金持ちも、 貧乏、病気や健康も、自分に関わる出来事の すべてに心が影響し、心が「反映」されてると、 肝に銘じていきること。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

                     無断転載、引用はお控え下さい。

「価値」が「勝ち」を与える。

「勝ち」は「価値」

平均寿命は八十年、 ゲームなんだよ、人生は、笑って暮らして生きなけりゃ、 生きてる甲斐がないじゃない。

競争社会に飲み込まれ、 買った負けたと「喜憂」して、空しい人生、送るのも、 人それぞれで勝手だが、も少し「眼(まなこ)」を見開けば、 うるおいのある生活や、生きがいのある生活が、 そこらここらに見えてくる。

力がないのに勝ちたがり、 「負けない」ことだけ考えりゃ、苦しくなるのは当たり前。

勝った、負けたにこだわって、 勝ってはおごり高ぶって、負ければ悔やんで落ち込んで、 仏頂面で生きている。

他人がどうあれ何であれ、 「我、関せず」と悠々と、のんびりゆったり生きていりゃ、 ほんとの「勝ち」というものは、自然に後からついてくる。

「勝ち」というのは勝つ「価値」が、 ある人だけに与えられ、「価値」のない人、 永遠に、 手にすることはないでしょう。

ちなみに人生、「負け組」は、 どんな事情があろうとも、くどくど弁解してみたり、 うだうだ愚痴をこぼさずに、勝つ「価値」がない人間と すっきりさっぱり諦めて、 生きていくしかありません。

しかし、そうした潔(いさぎよ)さ、 割り切り感はともすれば、「価値」を高めることになり、 「負け組」脱して「勝ち組」の、仲間に入り勝つ「価値」を、 手にすることができるかも。

とにかく結果はどうであれ、 「負け組」脱して生きたけりゃ、そうした努力をすることが、 「価値」あることかもしれません。

「価値」というのは世間から、 広く支持され人として、存在感が示されて、 重宝がられることをいう。

人生、生きてる証しとは、 日々の暮らしや生活で、まじめ、正直、素直さに、 謙虚な気持ちで生きていりゃ、誰もが羨(うらや)む人間の、 「価値」の上積み図れます。

「枯れ木も山の賑わい」で、 たとえ小さなことであれ、「価値」の重ね着、着て生きる、 そうしたことを常日頃、

肝に銘じて生きていりゃ、 人生、勝負の場面では、決して負けたりしないでしょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

よそ見の功罪エトセトラ

「よそ見」の功罪エトセトラ。

動物は「よそ見」しながら生きている。

動物がひとつのことに集中し、 「よそ見」しないで生きたなら、周囲に対する警戒や、 身の安全が守られず、肉食獣に襲われて、 たちまち命を 亡(な)くすでしょう。

人間は、「よそ見」をしないで生きるのが、正しいことと教えられ、一途に守ってきたけれど、「よそ見」をするということは、そんなに悪いことなのか、「よそ見」の功罪、あれこれと、探ってみるのも必要だ。

「よそ見」をするということは、集中力がなくなって、注意散漫、気がゆるみ、能率、効率下がるとか、失敗したり過ちを犯すリスクもあるだろう。

さらに加えて言うならば、日々の暮らしや生活で、嫉妬をしたり、羨望や、劣等感を抱くなど、人付き合いで悩むのは、他人のことが気になって、 「よそ見」をしている証しです。

人の「悩み」というものは、「あの日、あの時、あの人が」と、他人に対し、あれこれと、 「よそ見」をするから、生まれます。

他人を「よそ見」する前に、自分に集中していれば、悩み苦しむことはない。

ところで、「よそ見」の良い点は、まじめに「よそ見」をすることで、広い視点が持てるとか、マンネリ感がなくなって、ワンパターンに陥らず、斬新、尚且つユニークな、新たな発想生まれたり、心身共にリフレッシュ、できたりするから、有り難い。

とかく味ある人生は、一見、無意味と思われる、「よそ見」の中で生まれると、思った方がいいみたい。

道交法で禁止する、「わき見運転」することを、進めるわけではないけれど、車を運転する時も、適度に「よそ見」をしなければ、交通事情を的確に、判断できずに事故に遭う、リスクがあるということです。

日々の暮らしや生活で、 「ゆとり」がなくては、いけないが、「のんべんだらり」と続けては、 「ゆるみ、たるみ」の元になる。

ゆとりを持って「よそ見」すりゃ、自己成長に欠かせない、新たな気づきやひらめきが、湧いてくるから有り難い。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

「諦める「」という真の意味。

「諦める」という真の意味。

「あの時、ああしていたならば」、「こうしていればよかった」と、いくら悔やんで嘆いても、 後の祭り言うべきか、悲しいことに現実は、正に「そうしていた」わけで、過ぎた時間は戻りません。

専売特許じゃあるまし、悩みを抱えている人が、昼夜を問わず口にする、 「たら、れば」言葉にさよならし、この際すっきり潔(いさぎよ)く、 諦めるしかありません。

漢字の本家の中国じゃ、 「諦める」というその意味は、「明らか」という意味を持つ、 言葉だそうだ、解るかい?

日本のように仕方なく、 納得するとか無理をしてイヤイヤながら受け入れる、 ことでは一切ないのです。

すべての物ごと出来事は、 「起こるべくして起こるもの」、「成るべくして成った」という、 「必然、当然の法則」に、基づく結果であるために、 逆らうことはできません。

そうであるならこれからは、 無駄な抵抗やめにして、すべては「必然、当然」の、 結果であると解釈し、自ら進んで「あるがまま」、 受け入れなければなりません。

「諦める」という根拠には、 「当然観」というものが、あると思えば「諦観」の、 言葉の意味も解るはず。

往生際が悪いのは、 「諦める」という切り替えが、できないところに、 あるのです‼

「諦める」という前向きな、 「受容」の心があるならば、たとえ、どんなに辛くても、 日々の生活行動は、停滞しなくて済むのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

                     無断転載、引用はお控え下さい。

「壁」の功罪エトセトラ

壁というのは一定の、 方向性を保つのに、なくてはならないものである。

複雑怪奇に入り組んだ、 迷路も壁があることで、 出口にたどり着くのです。

壁というのはこのほかに、 失敗、過ち、間違いを、未然に防いでくれるほか、前にはだかり 戒める 禁止や自制の壁もありゃ、 自己成長に欠かせない 試練を与える壁もある。

さらに加えて言うならば、 雨、風凌(しの)いでくれるのも、 暑さ寒さを防ぐのも、外の敵から身を守り、 平和に暮らしていけるのも、 壁のおかげと心得る。

いずれの「壁」もこのように 身の安全を守るため、 必要不可欠大切な、貴重なものと心得る。

日々の暮らしや生活で、 「追い風」に乗り順調に、暮らしていればそれも良し。

しかし、時には「向かい風」、 まともに受けて苦悩する,逆風感じたその時は 「前に進んでいるんだ」と、 気持ちを新たに立ち向かう。

「向かい風」とは自らが、 成長している「証し」だと 教えてくれる有難い、 「無言の壁」と言えましょう。

♪風、風、吹け吹けもっと吹け、 「向かい風」ならさらに吹け‼♪・・・てっか。 

養老孟司も言ってるよ。 「バカの壁」とは自らの バカさ加減が生みだした「自業自得」の壁だって‼

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

                     無断転載、引用はお控え下さい。

「やぶ」のつぶやき、ひとり言

「やぶ」のつぶやき、ひとりごと。この意味・・・わかる?  

〇悩みは、ネガティブな思いや感情に「こだわり、とらわれ、そして勝手に思い込んだり決めつける」から生まれるんだって。もし、ポジティブ思いや感情だったら、気力や活力、生きるパワーになるから一度、考えてみない‼

〇「あの時ああしていたら」「こうしていれば」と悔やんでも、現実、「そうしていた」んだよ‼人生は「自作自演の悲喜劇」と、武者小路実篤も言ってるよ。

〇すべての物ごとや出来事の結果は、「起こるべくして起こった、成るべくして成った」当然結果なんだってよ‼だったら、素直に受け入れて、グズグズしないで先のことを考えた方がいいみたい。

〇動、植物は生命力を駆使して,状況に反応しながら生きている。人間は知恵を駆使して、状況をあるがままに受け入れ、適応しながら生きている。しかし、「悩んでいる人」は、「いやだぁ、参った、困ったぁ」と反応するから苦しいわけよ。

〇人は、失敗した時は、それなりに反省するが、成功した時の「経過考察」をしない。そこに「勝ちグセ」がつかない理由があるみたい。

〇本当の気配りや心配りというものは、本人が気づかぬところに配るもの!これ見よがしに配っても、ありがた迷惑かけるだけ。

〇人はすぐ「答え」を出したがるが、答えとは、「出す」ものではなく、「探す」もの。あれこれ考え、探すところに、ほんとうの「答え」に出会うんだって‼

〇人を不幸にする最も有害なものは、「自分の世界でしか通用しない論理や考え」である。とってつけたような「言い訳」や「論理をすりかえる」人は要注意‼

〇「脳みそ」は常に「学ぶ習性」の持つ。進化している人は、常に「脳みそ」を足で運んでいる。ひとつの「行動」は、百の「苦悩」に勝るってホントの話だよ。

 

                    無断で転載、引用はお控え下さい。