「報・連・相」では物足りない

報・連・相では物足りない。 

ほう(報)れん(連)そう(相)というものは、 野菜のことではありません。

ビジネススキルに 欠かせない、 報告、連絡、相談の、 頭(かしら)をとって「報・連・相」。

ところで最近この言葉、 ビジネス社会のみならず、  人が交流する場では、 コミュニケーションとるために、 欠かせぬスキルであるために、 猫も杓子も使います。

きちんと報告することや、 連絡事項は遅延なく、 伝えることとさらに又、 独断で判断せずに、 かならず相談するという、 ひとつの「決まり」があるのです。

長年、社会に根付いてる、 「報・連・相」のこの言葉、 確かの「的(まと)」射(い)た言葉だが、 ホントのことを言うならば、 報・連・相では物足りない。

ちなみに野菜のほうれん草、 料理メニューは「おしたし」や、 「サラダ」「ゴマあえ」あるけれど、 「ほうれんソティーは 格別だ。

「報告」すること大事です。 「連絡」すること必要です。 「相談」しなけりゃいけません。 しかし何かが足りません。

物足りないと言ったのは、 「提案」すると言う言葉。 ソティーのティーは「提案」で、 提案するのも大事です。

新たなビジネススキルとは、 報告、連絡、相談に、 提案、加えてみたところ、 「ほうれんソティー」と名を変えて、 立派なスキルになりました。

「報・連・相」も大事だが、 提案という主体的、 能動的な行動は、 ビジネス社会のみならず、 日々の暮らしや生活で、 大事なスキルになるでしょう。

「ほうれんソティー」と食べ合って、 人間関係良くしましょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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ひきこもりへの理解と対応。

ひきこもりへの理解と対応。

8050(はちまるごうまる)問題や、 7040(ななまるよんまる)問題で、 大きな社会問題に、 なって久しい「ひきこもり」。 全国的には相当な、 人が余儀なくされてます。

ひきこもる原因動機は、 人それぞれに違うけど、 苦悩が伴う生活を、 していることは確かです。

本来、人というものは、 「快」を求めて生きるとか、 「不快」を避けて生きるため、 「ひきこもる」という生活は、 「不快」を避けて生きるという、 確かな証しが立つのです。

「熊」を例えに言うならば、 フルシーズンの熊がいる、 現代社会と異なって、 昔の熊というものは、 厳しい冬が来る前に、 いわゆる「熊の穴籠り」、 穴に「こもって」いたのです。

その最大の理由とは、 冬の寒さや環境が、 熊にとっては相当に、 「不快」なものであるために、 回避や逃避の意味を込め、 不快な場所や場面から、 撤退、退避をしたのです

何を言わんとしているか、 察しがつくと思うけど、 現代社会で「ひきこもる」、 人と熊との違いとは、 熊はひとつの理由だが、 人は日常生活で、 いろんな苦悩を抱えます。

その苦悩から回避する、 方法として「ひきこもる」 選択をして自らの、 命を守っているのです。

「ひきこもる」という行為には、 身の安全を確保して、 命を守っていくという、 立派な根拠があるために、 恥ずべきことではないのです。

ところが「こもる」人たちの、 「こもった」あとの心情は、 熊と大きく違います。

不快を避けた熊たちは、 来る春までのんびりと、 安心しながら過ごします。

ところが「こもる」人たちは、 「何て自分はダメなの」と、 自分を否定し嫌悪する、 さらに加えて「生きてても、 価値などない」と自罰する

不快を避ける目的で、 回避したにもかかわらず、 こうした思いを新たにし、 苦悩が伴う生活を、 しているために社会では、 「ひきこもり」という人たちに、  悪い評価をするのです。 

「ひきこもる」という生活を、 改善、克服するために、 「社会復帰」を急がずに、 最も優先することは、 ストレス、逆境、困難に、 打ち克ち、乗り越え、へこたれない、 「折れない心」を身につけて、 「自己肯定観」を持ちながら、 自分らしく生きるという、 「人間復帰」を目指します。

現在、「こもっている人」へ、 心を込めて伝えたい‼ たった一度の人生を、 粗末にしてはいけません。

「ひきこもる」という生活の、 プラスの意味を見出せば、 きっと「あなた」の人生が、変わってくると信じます。 開き直っていきましょう‼ 

かく言う「やぶ」も、もと「ひきこもり」ってよ。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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不登校への理解と対応。

以前は「登校拒否」と呼び、 今では「不登校」一文字で、 括(くく)っているけど実態は、 人それぞれで違います。

文科省では「不登校」は、 学校内では「誰にでも、 起こり得る」と認めつつ、 不登校予防の対策や、 起きた場合の対応が、 うまく図れていないため、 年々、子どもの不登校は、 増加の一途を辿(たど)ってる。

不登校になる原因や、 キッカケである「誘因」は、 いろいろあるが長期化や、 深刻化を増す理由には、 「子ども目線」で考えず、 「大人目線」の対応を、 しているところにあるのです。

ところで子どもの不登校は、 次のふたつに分かれます。

ひとつは子どもが学校に、 「行きたいけれど行けない」のと、 「行けるが行かない」「行きたくない」、 ふたつのパターンに分かれます。

そのため不登校問題を、 解決しようとする時は、 「行けない」理由は何なのか、 「行かない」理由は何なのか、 勿論、原因知ることは、 大事なことであるけれど、 原因ばかりにこだわると、 誰が良いとか悪いとか、 「犯人探し」をしてみたり、 「あの時ああしていたなら」と、 無意味な後悔するだけで、 子どもの不登校問題の、 根本的な解決は、 できないものと心得る。

さらに加えて言うならば、 子どもも親も学校も、 「何とかしたい」と考えて、 いろいろ模索をしてるけど、 子どもがしたい「何とか」の、 意味や目的内容と、 親や学校考える、 「何とかしたい」の内容に、 大きな隔たりあるのです。

子どもがしたい「何とか」の、 意味、目的というものは、 つらい苦しい「生きにくい」、 そうした思いを払拭し、 「楽」な気持ちで過ごしたい、 ただそれだけのことである。

ところが親や学校が、 「何とかしたい」と思うのは、 言わずと知れた「学校」に、 「行って欲しい」や「行かせたい」、 ただそれだけの目的で「登校刺激」を続けます。

これじゃ子どもの不登校を、 解決しようと思っても、 解決どころか反対に、 「分かっちゃいない」と見透かされ、 見捨てられ感、置き去り感、 そうした思いを強くして、 子どもは離れていくでしょう。

現在、多くの不登校の、 子どもが抱く心情は、 自分の評価が低くなり、 「何て自分はダメなの」と、 自己否定に自責感、 自己嫌悪にさらに又、 「こんな自分は生きてても 価値などない」と自罰する、  そうした思いを持ってます。

ですから不登校問題の、 根本的は解決は、 「学校復帰」をするのでなく、 ストレス、逆境、困難に、 打ち克ち、乗り越え、へこたれない、 「折れない心」を身につけて、 「自己肯定観」を持ちながら、 人間らしく生きるという、 「人間復帰」を目指します。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「今を生きる」ということは。

人は誰でも過去があり、 現在を経て未来へと、 時間(とき)の流れを生きてます。

ところで「瀬戸内寂聴」は、 「今を生きる」ということを、 事あるごとに言うけれど、 要は「生き方」そのものが、  どうであるかを言ってます。

ところで人は常日頃、 夢や希望を持ちながら、 「やがていつか」は「行く行く」は、 「こうありたい」や「こうしたい」、 そういう思いで生きてるが、 人の気持ちというものは、 「三日坊主」じゃないけれど、 初めの決意は固くても、 その内だんだん弱くなり、 長く維持していけません。

「たがていつか」は「行く行く」は、 「こうありたい」と言いながら、 口先、乾かないうち、 「今すぐ」「直ちに」「すぐさま」に、 「そうなりたい」と望みます。

「やがて、いつか」ということを、 「時間軸」で考えりゃ、 少なからずも現在(いま)よりは、 未来のことを指すわけで、 なのに「直ちに」「今すぐに」、 「そうないたい」と望むのは、 未来の時間を強引に、 引き寄せるのと同じこと。

ちなみに後悔する人や、 愚痴をこぼしている人は、 「あの時ああしていたならば」、 「こんなはずではなかった」と、 「タラレバ言葉」を連発し、 過去の時間を引き寄せる、 困った人と言えましょう。

「今を生きる」ということは、 未来の時間を引っ張らず、 過去の時間も引っ張らず、 「今」の時間を大切に、 生きてくことを言うのです

夢や希望を持つことは、 大事なことではあるけれど、 そもそも未来の時間とは、 脳が作った「妄想」の、 世界であって確実に、 叶うものではありません。

しかし結果はどうであれ、 夢を叶えていくために、 「今」の時間を「大切に、 生きろ」と言っているのです。

いずれの時間も引っ張ると、 不平不満が募るため、 やるべきことをやらないで、 挙句の果てはダラダラと、 暮らしていくしかありません。

「今」をまともに生きられない、 人というのはこのように、 無理強いをして無駄なこと、 無意味なことに逆らって、 心身共に疲れてる、 哀れな人と言えましょう。

「今を生きる」ということは、 未来の時間や過ぎ去った、 過去の時間に執着し、 こだわることではありません。

「今」、「現在」をあるがまま、 受け入れながら前向きに、 可能性を信じつつ、 常に自分に期待して、 生きてくことを言うのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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不安だからと動く人、動かぬ人の違いとは。

不安だからと動く人。動かぬ人の違いとは。

悩みを抱えている時や、先行き不安がある時は、  行動力がなくなって、 動けないとか動かない、 そうした思いが強くなり、 ますます動きが止まります。

だからといっていつまでも、 不安を理由に動かなきゃ、 さらに不安が高まって、 身動きできない状況に、 陥ることになるでしょう。

不安だからと動く人。

不安は不安と割り切って、 不安をそのまま受け入れて、 行動起して行く人は、 危機に対する管理力、 適応力を持ってます。

人生に、悩みはつきものそのために、 常に「不安」はあるという、 「心の準備」をしておけば、 「備えがあれば憂いなし」、 「転ばぬ先の杖をつく」、 言葉のとおり「不安」には、 戸惑うことはないでしょう。

動く、動かぬそれだけの  ことではあるがその後の、 結果というのは明らかに、 すべての人の生活に  影響力を与えます。

将来、何が起こるのか、 このまま平和に暮らせるか、 日々の暮らしや生活で  不安なことや心配は、 尽きないもので、なくすとか、 なくなるものでもありません。

「ワニの腕立て伏せい」とか、 「亀の腹筋運動」は、 「無理」を表わす例えだが、 それと同じく心配や、 不安を持たずに生きるのは、 無理、無駄、無意味と諦めて、 受け入れるしかありません。

「行動」、無くして変化なし。 行動力のある人は、 心配だから動きます。 不安があるから動きます

不安だからと動く人、 動かぬ人の違いとは、 不安に対する捉え方、 受け止め方など「解釈」の、「仕方」にあると言うのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「折れない心」を身につける。

「折れない心」を身につける。

悩みが解決できなくて、 憂うつ気分でいる人や、 失敗、挫折で落ち込んで、 だうだしている人は皆、 「心が折れて」いるのです。

「心が折れる」キッカケは、 ストレッサーと呼ばれてる、 人を悩ますさまざまな、 「外力」すなわちストレスで、 「心が歪む」ことにより、 心が折れてしまいます

そのストレスから身を守る、 耐久力や抵抗力、 反発力などストレスに、負けない力というものが、 レジリエンスと言われてる、 「折れない心」であるのです。

しかも「折れない心」とは、 タフで強くて強靭な、 心ではなく柔軟で、 しなやかさを持つ心です。

さらに加えて言うならば、 レジリエンスの考えは、 心が折れた状態を、 回復させるだけでなく、 心が折れない状況を、 維持する意味もあるのです。

日々の暮らしや生活で、 幸せ求めて生きるには、 「心が折れない生き方」を、 実践しなけりゃなりません。

ストレス、逆境、困難に、 打ち克ち、乗り越え、へこたれない、 「心が折れない生き方」は、 すべての物ごと出来事は、 「起こるべくして起こるもの」、 「成るべくして成った」という、 「当然観」を持たなけりゃ、 叶えることはできません。

人生、生きるということは、 日々、さまざまな出来事を、 たとえどんなに辛くても、 あるがままに受け入れて、 足を止めずに生きこと

そのため大事な考えは、 あらゆる物ごと出来事の、 結果はというのは「当然の 結果である」と受け止める、 「当然観」を持つのです

さらに大事なポイントは、 自分も他人も「憂うつ」に、 ならない生き方するのです。

「憂うつ」感を持つことは、 「心が折れる」境界に、 立っているのと同じです。

悩み、心配、困りごと、 抱えているということは、 「憂うつ感」 を持ちながら、 生きていると同じです。

トラブル起こして悩むのも、 病気で体調、崩すのも、 企業が倒産することも、 そこで関わる人たちを、 いずれの場合も「憂うつ」な、 気分にさせていまいます

そのため日頃の生活で、 体調管理に努めたり、 企業が経営合理化を、 図る理由の背景に、 病気を未然に防いだり、 企業が倒産、避けるなど、 レジリエンスの考えが、 広く反映されてます。

さらに加えて言うならば、 「折れない心」を身につけて、 「心が折れない生き方」を、 実践するにはそのほかに、 6つの課題の習得に、 努めなければなりません。

「やぶのつぶやきひとりごと」、 詳しく説明できないが、 「頭出し」だけしましょうか。

ひとつは「冷静沈着」に、 「楽観的」かつ「柔軟」な、 思考で物ごと考えて、 「人付き合いに」欠かせない、 対人スキルを身につけて、 「人間力」を高めます。

さらに自分の問題は、 自分で解決するという、 「問題解決」する力、 そして自信の元である、 「自己肯定観」を養えば、 「折れない心」は最強の、 ストレスケアに必要な、 「知的武装」になるでしょう。 

「折れない心」というものを、 身につけたいと思うなら、 私「やぶ」に連絡を、 すれば何とかなるかもね!

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「楽しい」人生送るのか、「楽しく」人生、送るのか。

楽しい人生送るのか、楽しく人生送るのか。

「楽しい」人生送るのか、 「楽しく」人生送るのか、 「おいしい」ものを食べるのか、 「おいしく」ものを食べるのか、 言葉的には一言の、 違いであるがその実は、 生き方自体を左右する、 大事な意味があるのです。

おそらく多くの人たちは、 「おいしい」ものを食べながら 「楽しい」日々を送りたい、 そうした思いで生きてるが、 残念ながら初めから、 「おいしい」ものや「楽しい」と、 思えるものはありません。

それを知らずに「ないものを、 ねだって」生きているために、 日々の暮らしや生活で、 不平不満が出るのです。

生きるというのは自らが、 「主役」でなければなりません。

「楽しい」人生送るとか、 「おいしい」ものを食べるのは、 「主役」というより「脇役」の、 言葉であって常日頃、 人をあてにし依存する、 心を持っているのです。

もしも「主役」で生きるなら、 「楽しく」人生送るとか、 「おいしく」ものを食べるという、 積極的かつ主体的、 そうした言葉が出るのです。

どんな粗食であろうとも、 「おいしく食べる」という意思を、 持てば「おいしく」食べられる。

日々の暮らしも同様に、 「楽しく生きる」という意思を、 持てば「楽しく」生きられる。

要は、「気持ち」の持ちようで、 良くも悪くも自らの、 「意志」ですべてが決まります。

他人が何を食べようと、 どんな生き方しようとも、 自分自身がどのように、 考え、受け止め、捉えるか、 意志の力で「解釈」は、 いかようにでも変わります。

さらに加えて言うならば、 「ありがたい」とか「助かる」と、 「感謝」の気持ちを忘れずに、 生きていたならいつだって、 「おいしく」ものも食べられりゃ、 「楽しく」日々も過ごせます。

「おいしいなぁ」と感じたり、 「楽しいなぁ」と思うのは、 すべて「気分」の問題で、 それに対して「楽しく」や、 「おいしく」食べるということは、 「意志」の力で決まります。

意志薄弱や確固たる、 意志を持たずに生きるのは、 車が行き交う公道を、 目隠しをして渡ろうと、 していることと同じです。

たった一度の人生を、一貫性ある生き方で、 全(まっと)うしたいと思うなら、「おいしく」ものを食べること、 「楽しく」人生、生きること‼

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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判断、決断、実行力。

たばこの火さえ消せないで、 火事など消せるわけがない。

大口叩(たた)いて見栄(みえ)張って、 風呂敷広げてみたところ、 中味に何もなかったら、 どうしてくれよう「思案橋」。

塵(ちり)も積れば山となる。 小さなことをきっちりと、 基本どおりにやらなけりゃ、 大きなことはできません。

だからと言ってやみくもに、 やれば良いとは言わないが、 何かを始める場合には、 どうして自分がこのことを、 やろうとしてるか行動の、 「動機」をしっかり自覚する。

動機がはっきりしなければ、 いくら情報集めても、 何を選択するべきか、 判断したり決断を、 すること自体、できません。

「仏像、創って魂(たましい)を、 入れず」の言葉があるように、 目的イコール動機にも、 「志(こころざし)」となる信念が、 なければ途中で挫折する、 羽目になるのが「オチ」みたい。

中にはいろんな人がいて、 判断できても決断が、 できない人も困るけど、 計画立てても実行に、 移せぬ人も困ります。

判断できても決断が、 できなきゃ前に進めない。 計画立てても実行に、 移さなければ意味がない。

どちらも大事なテーマだが、 決断するということは、 他人に委(ゆだ)ねることじゃなく、自分の意志でするのです。

ちなみに判断決断が、 できない時の背景に、 何があるかと言うならば、 そもそも判断、決断の、 「力」がないというほかに、 「迷う」心やさまざまに、 「戸惑う」気持ちがあるのです。

人が迷うということは、 あるものごとに対しての、 考え方や捉え方、 感じ方など感覚が、 微妙に均衡(きんこう)してるため、 選択できずにいるという、 戸惑う「様(さま)」を言ってます。

要は「迷い」があるのです。

シーソーゲームに例えれば、 「瘦(や)せ」と「デブ」とが乗ってれば、 迷うことなく重いのは、 「デブ」と判断できるでしょう。

ところが均衡していれば、 どちらが軽く、重いのか、 大いに迷い、判断や、 決断力が鈍(にぶ)ります。

日々の暮らしや生活で、 こうした迷いがある時は、 逡巡(しゅんじゅん)しないで速やかに、 どちらかひとつを選びます。

但し、注意をしなければ、 ならない点がひとつある。

均衡してるということは、 五十一対四十九、 こうした状況、言う訳で、 百対〇(ゼロ)と言うように、 一方的ではありません。

正誤の例えで言うならば、 その時、選択したものは、 どちらも半分正しけりゃ、 どちらも半分誤りと、 考えなければなりません。

つまり、どちらを選んでも、 決定的な正解や、 確定的な誤りが、 ない状態と言えるでしょう。

ピンチはチャンスと言うように、 あらゆる物ごと出来事は、 プラスマイナス両方の、 価値感情があるという、 いわゆる「感情両価性」、 両面観で捉えなきゃ、 思考の偏り生まれます。

両面観に基(もと)づいて、 判断、決断するならば、 正しい選択できるはず。

判断するには正確に、 決断するには速やかに、 実行するには確実に

判断、決断、実行の、 三つの力がスムーズに、 連携すれば良いのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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人生で最も「怖い」ものは何?

人生で最も怖いものは何?

この世で生きてる人は皆、 いらんな人とめぐり合い、 関わり合って生きてるが、 人と関わるその中で、 最も怖いことがある。

怖い「答え」というものは、 嫉妬されたり中傷や、 叱責されることじゃない。すべてのことを「無視」されて、 唯一「沈黙」されること

嫉妬、中傷、叱責は、 不本意ながらも関心や、 興味が自分に向いていて、 「相手の視線」の中にいる。

ところが「無視」や「沈黙」は、 不本意どころか完全に、 相手の視線や視界には、 自分は入っておりません。

人は誰でもお互いの、 視線や視界の中にいて、 はじめて安心するのです。

人と付き合うことになりゃ、 「仲良しこよし」の時ばかり、 続くものではありません。

トラブル、喧嘩はつきもので、 いろんなことがありますが、 それでも相手の視界には、 ちゃんと自分が入ってます。

人が生きるということは、 日々の暮らしや生活で、 人と出会って語り合い、 ふれ合いながら認め合い、 互いに支え合いながら、 困った時は助け合う。

あてにされたりあてにする、 そうした相互の関係が、 あってはじめて生きられる。

ちなみに人に無視されて、 空しい思いでいる人は、 この世に生まれた当初から、 無視され続けてきた訳じゃ、 おそらくないと思います。

人は本来、相手には、 望みをかけて期待する、 やさしい心を持ってます。

無視というのは存在や、 価値を認めぬことだから、 おそらくきっと「その人」は、 そうした期待を裏切って、 棒にも箸にもかからない、 「やんちゃ」をやってきたのでしょう。 だから相手の視界から、 「消された」ことと思います。

そうした人を世間では、 「金魚バカ」とか申します。 「金魚バカ」とはどのように、 しても「救えぬバカ」を言う。

日々の暮らしや生活で、 まじめ、正直、素直さに、 謙虚な気持ちで生きてれば、 「無視」もされずに「沈黙」も、 されるどこらか反対に、 広く世間に愛されて、 頼りにされることでしょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「まさか」という名の「さか」はない。

「まさか」という名の「坂」はない。

苦労七坂 七曲り。 人生、生きてる間には、 イヤイヤながらも乗り越える、好まぬ坂は多々あるが、 「まさか」という名の「坂」だけは、 できれば避けて通りたい。

「まさか」の「さか」というものは、 思いもよらぬ出来事や、 予測できないことがらに、 遭遇した時出合う「さか」。

地震、雷、火事、水害、 自然災害のみならず、 日々の暮らしや生活で、 「まさか」の「さか」というものは、 予期せぬ時に現れて、 試練を与える「さか」である。

「まさか」の「さか」というものは、 解釈次第でプラスにも、 マイナスにもなる「さか」だから、 「さか」の中味を確かめて、 有効活用するように、 努めなければなりません。

どういう意味かと言うならば、 日常起こるさまざまな、 突発的な出来事も、 自然界での出来事も、 人智の及ばぬだけのこと、 地球規模で考えりゃ、 すべての物ごと出来事は、「起こるべくして起こるもの」、 「成るべくして成る」という、 「必然的、かつ当然」の、 結果であると言えましょう。

「当然観」で捉えれば、 「まさか、一体どうして」と、 野暮な言葉は吐かずとも、 すべてに「こんなわけだった」 「こんなはず」だと解ります。

「まさかこんなになるなんて」、 思いもよらぬ出来事や、 意外な結果に驚いて、 戸惑う人の心には、 「偶然」という観念で、 捉える心があるのです。

偶然というその意味は、 思いもよらぬ「よもや」ごと、 だから「まさか」になるのです。

すべての物ごと出来事は、 「起こるべくして起こる」という、 「当然観」を持つ人に、 いろんな「さか」があろうとも、 「まさか」という名の「坂」はない・・・ってよ。

「まさか」の「さか」に出会っても、 冷静沈着、落ち着いて、 あるがままに受け入れて、 「自分は決してめげない」と、 自信を持って向き合えば、 多少時間がかかっても、 心が折れることはなく、 「きっと、絶対、確実に」、 「さか」を登って行けるでしょう。

「まさか」の「さか」を登るには、 当然観の「金剛杖」、 しっかり突いて登ること‼

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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