「折れない心」を身につける。

「折れない心」を身につける。

悩みが解決できなくて、 憂うつ気分でいる人や、 失敗、挫折で落ち込んで、 だうだしている人は皆、 「心が折れて」いるのです。

「心が折れる」キッカケは、 ストレッサーと呼ばれてる、 人を悩ますさまざまな、 「外力」すなわちストレスで、 「心が歪む」ことにより、 心が折れてしまいます

そのストレスから身を守る、 耐久力や抵抗力、 反発力などストレスに、負けない力というものが、 レジリエンスと言われてる、 「折れない心」であるのです。

しかも「折れない心」とは、 タフで強くて強靭な、 心ではなく柔軟で、 しなやかさを持つ心です。

さらに加えて言うならば、 レジリエンスの考えは、 心が折れた状態を、 回復させるだけでなく、 心が折れない状況を、 維持する意味もあるのです。

日々の暮らしや生活で、 幸せ求めて生きるには、 「心が折れない生き方」を、 実践しなけりゃなりません。

ストレス、逆境、困難に、 打ち克ち、乗り越え、へこたれない、 「心が折れない生き方」は、 すべての物ごと出来事は、 「起こるべくして起こるもの」、 「成るべくして成った」という、 「当然観」を持たなけりゃ、 叶えることはできません。

人生、生きるということは、 日々、さまざまな出来事を、 たとえどんなに辛くても、 あるがままに受け入れて、 足を止めずに生きこと

そのため大事な考えは、 あらゆる物ごと出来事の、 結果はというのは「当然の 結果である」と受け止める、 「当然観」を持つのです

さらに大事なポイントは、 自分も他人も「憂うつ」に、 ならない生き方するのです。

「憂うつ」感を持つことは、 「心が折れる」境界に、 立っているのと同じです。

悩み、心配、困りごと、 抱えているということは、 「憂うつ感」 を持ちながら、 生きていると同じです。

トラブル起こして悩むのも、 病気で体調、崩すのも、 企業が倒産することも、 そこで関わる人たちを、 いずれの場合も「憂うつ」な、 気分にさせていまいます

そのため日頃の生活で、 体調管理に努めたり、 企業が経営合理化を、 図る理由の背景に、 病気を未然に防いだり、 企業が倒産、避けるなど、 レジリエンスの考えが、 広く反映されてます。

さらに加えて言うならば、 「折れない心」を身につけて、 「心が折れない生き方」を、 実践するにはそのほかに、 6つの課題の習得に、 努めなければなりません。

「やぶのつぶやきひとりごと」、 詳しく説明できないが、 「頭出し」だけしましょうか。

ひとつは「冷静沈着」に、 「楽観的」かつ「柔軟」な、 思考で物ごと考えて、 「人付き合いに」欠かせない、 対人スキルを身につけて、 「人間力」を高めます。

さらに自分の問題は、 自分で解決するという、 「問題解決」する力、 そして自信の元である、 「自己肯定観」を養えば、 「折れない心」は最強の、 ストレスケアに必要な、 「知的武装」になるでしょう。 

「折れない心」というものを、 身につけたいと思うなら、 私「やぶ」に連絡を、 すれば何とかなるかもね!

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

「楽しい」人生送るのか、「楽しく」人生、送るのか。

楽しい人生送るのか、楽しく人生送るのか。

「楽しい」人生送るのか、 「楽しく」人生送るのか、 「おいしい」ものを食べるのか、 「おいしく」ものを食べるのか、 言葉的には一言の、 違いであるがその実は、 生き方自体を左右する、 大事な意味があるのです。

おそらく多くの人たちは、 「おいしい」ものを食べながら 「楽しい」日々を送りたい、 そうした思いで生きてるが、 残念ながら初めから、 「おいしい」ものや「楽しい」と、 思えるものはありません。

それを知らずに「ないものを、 ねだって」生きているために、 日々の暮らしや生活で、 不平不満が出るのです。

生きるというのは自らが、 「主役」でなければなりません。

「楽しい」人生送るとか、 「おいしい」ものを食べるのは、 「主役」というより「脇役」の、 言葉であって常日頃、 人をあてにし依存する、 心を持っているのです。

もしも「主役」で生きるなら、 「楽しく」人生送るとか、 「おいしく」ものを食べるという、 積極的かつ主体的、 そうした言葉が出るのです。

どんな粗食であろうとも、 「おいしく食べる」という意思を、 持てば「おいしく」食べられる。

日々の暮らしも同様に、 「楽しく生きる」という意思を、 持てば「楽しく」生きられる。

要は、「気持ち」の持ちようで、 良くも悪くも自らの、 「意志」ですべてが決まります。

他人が何を食べようと、 どんな生き方しようとも、 自分自身がどのように、 考え、受け止め、捉えるか、 意志の力で「解釈」は、 いかようにでも変わります。

さらに加えて言うならば、 「ありがたい」とか「助かる」と、 「感謝」の気持ちを忘れずに、 生きていたならいつだって、 「おいしく」ものも食べられりゃ、 「楽しく」日々も過ごせます。

「おいしいなぁ」と感じたり、 「楽しいなぁ」と思うのは、 すべて「気分」の問題で、 それに対して「楽しく」や、 「おいしく」食べるということは、 「意志」の力で決まります。

意志薄弱や確固たる、 意志を持たずに生きるのは、 車が行き交う公道を、 目隠しをして渡ろうと、 していることと同じです。

たった一度の人生を、一貫性ある生き方で、 全(まっと)うしたいと思うなら、「おいしく」ものを食べること、 「楽しく」人生、生きること‼

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

判断、決断、実行力。

たばこの火さえ消せないで、 火事など消せるわけがない。

大口叩(たた)いて見栄(みえ)張って、 風呂敷広げてみたところ、 中味に何もなかったら、 どうしてくれよう「思案橋」。

塵(ちり)も積れば山となる。 小さなことをきっちりと、 基本どおりにやらなけりゃ、 大きなことはできません。

だからと言ってやみくもに、 やれば良いとは言わないが、 何かを始める場合には、 どうして自分がこのことを、 やろうとしてるか行動の、 「動機」をしっかり自覚する。

動機がはっきりしなければ、 いくら情報集めても、 何を選択するべきか、 判断したり決断を、 すること自体、できません。

「仏像、創って魂(たましい)を、 入れず」の言葉があるように、 目的イコール動機にも、 「志(こころざし)」となる信念が、 なければ途中で挫折する、 羽目になるのが「オチ」みたい。

中にはいろんな人がいて、 判断できても決断が、 できない人も困るけど、 計画立てても実行に、 移せぬ人も困ります。

判断できても決断が、 できなきゃ前に進めない。 計画立てても実行に、 移さなければ意味がない。

どちらも大事なテーマだが、 決断するということは、 他人に委(ゆだ)ねることじゃなく、自分の意志でするのです。

ちなみに判断決断が、 できない時の背景に、 何があるかと言うならば、 そもそも判断、決断の、 「力」がないというほかに、 「迷う」心やさまざまに、 「戸惑う」気持ちがあるのです。

人が迷うということは、 あるものごとに対しての、 考え方や捉え方、 感じ方など感覚が、 微妙に均衡(きんこう)してるため、 選択できずにいるという、 戸惑う「様(さま)」を言ってます。

要は「迷い」があるのです。

シーソーゲームに例えれば、 「瘦(や)せ」と「デブ」とが乗ってれば、 迷うことなく重いのは、 「デブ」と判断できるでしょう。

ところが均衡していれば、 どちらが軽く、重いのか、 大いに迷い、判断や、 決断力が鈍(にぶ)ります。

日々の暮らしや生活で、 こうした迷いがある時は、 逡巡(しゅんじゅん)しないで速やかに、 どちらかひとつを選びます。

但し、注意をしなければ、 ならない点がひとつある。

均衡してるということは、 五十一対四十九、 こうした状況、言う訳で、 百対〇(ゼロ)と言うように、 一方的ではありません。

正誤の例えで言うならば、 その時、選択したものは、 どちらも半分正しけりゃ、 どちらも半分誤りと、 考えなければなりません。

つまり、どちらを選んでも、 決定的な正解や、 確定的な誤りが、 ない状態と言えるでしょう。

ピンチはチャンスと言うように、 あらゆる物ごと出来事は、 プラスマイナス両方の、 価値感情があるという、 いわゆる「感情両価性」、 両面観で捉えなきゃ、 思考の偏り生まれます。

両面観に基(もと)づいて、 判断、決断するならば、 正しい選択できるはず。

判断するには正確に、 決断するには速やかに、 実行するには確実に

判断、決断、実行の、 三つの力がスムーズに、 連携すれば良いのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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人生で最も「怖い」ものは何?

人生で最も怖いものは何?

この世で生きてる人は皆、 いらんな人とめぐり合い、 関わり合って生きてるが、 人と関わるその中で、 最も怖いことがある。

怖い「答え」というものは、 嫉妬されたり中傷や、 叱責されることじゃない。すべてのことを「無視」されて、 唯一「沈黙」されること

嫉妬、中傷、叱責は、 不本意ながらも関心や、 興味が自分に向いていて、 「相手の視線」の中にいる。

ところが「無視」や「沈黙」は、 不本意どころか完全に、 相手の視線や視界には、 自分は入っておりません。

人は誰でもお互いの、 視線や視界の中にいて、 はじめて安心するのです。

人と付き合うことになりゃ、 「仲良しこよし」の時ばかり、 続くものではありません。

トラブル、喧嘩はつきもので、 いろんなことがありますが、 それでも相手の視界には、 ちゃんと自分が入ってます。

人が生きるということは、 日々の暮らしや生活で、 人と出会って語り合い、 ふれ合いながら認め合い、 互いに支え合いながら、 困った時は助け合う。

あてにされたりあてにする、 そうした相互の関係が、 あってはじめて生きられる。

ちなみに人に無視されて、 空しい思いでいる人は、 この世に生まれた当初から、 無視され続けてきた訳じゃ、 おそらくないと思います。

人は本来、相手には、 望みをかけて期待する、 やさしい心を持ってます。

無視というのは存在や、 価値を認めぬことだから、 おそらくきっと「その人」は、 そうした期待を裏切って、 棒にも箸にもかからない、 「やんちゃ」をやってきたのでしょう。 だから相手の視界から、 「消された」ことと思います。

そうした人を世間では、 「金魚バカ」とか申します。 「金魚バカ」とはどのように、 しても「救えぬバカ」を言う。

日々の暮らしや生活で、 まじめ、正直、素直さに、 謙虚な気持ちで生きてれば、 「無視」もされずに「沈黙」も、 されるどこらか反対に、 広く世間に愛されて、 頼りにされることでしょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「まさか」という名の「さか」はない。

「まさか」という名の「坂」はない。

苦労七坂 七曲り。 人生、生きてる間には、 イヤイヤながらも乗り越える、好まぬ坂は多々あるが、 「まさか」という名の「坂」だけは、 できれば避けて通りたい。

「まさか」の「さか」というものは、 思いもよらぬ出来事や、 予測できないことがらに、 遭遇した時出合う「さか」。

地震、雷、火事、水害、 自然災害のみならず、 日々の暮らしや生活で、 「まさか」の「さか」というものは、 予期せぬ時に現れて、 試練を与える「さか」である。

「まさか」の「さか」というものは、 解釈次第でプラスにも、 マイナスにもなる「さか」だから、 「さか」の中味を確かめて、 有効活用するように、 努めなければなりません。

どういう意味かと言うならば、 日常起こるさまざまな、 突発的な出来事も、 自然界での出来事も、 人智の及ばぬだけのこと、 地球規模で考えりゃ、 すべての物ごと出来事は、「起こるべくして起こるもの」、 「成るべくして成る」という、 「必然的、かつ当然」の、 結果であると言えましょう。

「当然観」で捉えれば、 「まさか、一体どうして」と、 野暮な言葉は吐かずとも、 すべてに「こんなわけだった」 「こんなはず」だと解ります。

「まさかこんなになるなんて」、 思いもよらぬ出来事や、 意外な結果に驚いて、 戸惑う人の心には、 「偶然」という観念で、 捉える心があるのです。

偶然というその意味は、 思いもよらぬ「よもや」ごと、 だから「まさか」になるのです。

すべての物ごと出来事は、 「起こるべくして起こる」という、 「当然観」を持つ人に、 いろんな「さか」があろうとも、 「まさか」という名の「坂」はない・・・ってよ。

「まさか」の「さか」に出会っても、 冷静沈着、落ち着いて、 あるがままに受け入れて、 「自分は決してめげない」と、 自信を持って向き合えば、 多少時間がかかっても、 心が折れることはなく、 「きっと、絶対、確実に」、 「さか」を登って行けるでしょう。

「まさか」の「さか」を登るには、 当然観の「金剛杖」、 しっかり突いて登ること‼

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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心の病にかかる人。

心の病にかかる人。

常にまじめで几帳面。 完全、完璧心気的、 気になりだしたら 止まらない。

100点取るか0点か、 全てか無かの両極端。 愚痴(ぐち)や弱音は吐きにくく、 我慢、引っ込み、断れない。

不安、緊張、敏感で、 プライド高く、根は頑固。  「もしかしたら・・」が「そうである」、こだわり強く思い込む、  すべき」「あるべき」「ねばならない」、 思考はいつもワンパターン。

自分の評価が低すぎて、 否定と自責をくり返す。 人は「いい子(人)」と言うけれど、 本音隠して建前の、 仮面の演技に疲れ切る。 いつも憂うつ生きにくい、 心の病にかかる人。

人も羨(うらや)む性格も、 使い勝手が下手ならば、 自分を悩ます種になる。「三つ子の魂(たましい) 百までも」、 「持った性分死ぬまで」と 性格、気質は変わらぬが、 「馬鹿とハサミは 使いよう」、 日々の暮らしや生活で、上手に使いこなせれば、 自分を生かす糧(かて)になる。

ところで強迫神経症、 こうあるべきにこうすべき、 「べき」にこだわり続けます。

手洗い、歯磨き入浴や、 鍵閉め、戸締り火の始末、 何度も何度も確かめる。 トイレの場所が気になって、 各駅毎に下車をする。

そのほか物が捨てられず、 貯め込み集めることもある。

「べき」に根拠がないことや、 無意味とわかっていながらも、 こだわり続けていなければ、 心が不安でたまらない。  こだわり続けたそのあとは、 「何て自分はダメなの」と 自ら否定し嫌悪する。

さらに自分を卑下したり、 自責の念に駆(か)られたり、「こんな自分は生きてても、 価値などない」と自罰する。

さらに加えて言うならば、 対人不安や恐怖症。 特に美人じゃないけれど、 自分の容姿が醜(みにく)いと、 「醜態(しゅうたい)恐怖」を抱いたり、 人の視線が気になって、 不安なあまり動けない。

さらに加えて言うならば、 高い所や狭い場所、 鋭く尖(とが)ったものなどに、 極度の恐怖を抱くという、 いわゆる不安恐怖症。

心の病の人たちに、 共通している特徴は、 不安でないのに不安がり、 怖くもないの 怖いと言う「認知にゆがみ」が あるのです。

ゆがみをなくす方法は、 逆らわないでさらけだす、 「認知行動療法」の、 「曝露(ばくろ)療法」効果的。

たとえ不安や恐怖でも、 あるがままに受け入れて、 慣れて馴染んでいくうちに、 ゆがみは自然に治るもの。 不安や恐怖があるからと、 何もしないでいることが、 一番悪いことである。

不安や恐怖があるからと、 何もしないでいたならば、 自然増殖繰り返す、 厄介者であるゆえに、 仮に不安や恐怖でも、 あるがままに受け入れて、 やるべきことをやるのです。

「安心しなさい大丈夫」。 不安や恐怖で死んだ人、 知る限りではおりません。

心の病という「奴」は、 心にホントの原因が、 あって発症しますから、 ものの見方や捉え方、 考え方を 変えなけりゃ、 一時的には治っても、 とどのつまりは再発を、 くり返してはその度に、 重度を増していくのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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あらゆる「答え」は過去のある

あらゆる「答え」は過去にある。

人生は、過去・現在・未来へと、 続く時間であるけれど、生きるというのは現在の、 「今」の時間を言うのです。

そして「今」ある時間とは、 一秒過ぎれば過去という、 時間の一部になるのです。

ところで悩みや問題を、 解決しようとあれこれと、模索をするけどほとんどは、 正しい答えというものに、 めぐり合うとは限らない。

何故なら「これからどうしよう」 「今後、どうすりや良いのだろう」多くの人が考える、 「これから、今後」というものは、 「未来」を表す言葉です。

未来というのは曖昧で、 やってみなけりゃわからない。それより悩みや問題の、 起きた理由を知ることが、手っ取り早い方法で、 確かな答えにめぐり合う。

過去がすべてを知っている。 悩みや問題解決の、 正しい答えというものは、 過去の時間にあるのです。

肥満を解消するために、 痩せるためにはどうしたら、良いかを模索するよりは、 過去の太ったきっかけや、 経緯を知れば良いことで、 あらゆる物ごと出来事の、 解決策というものは、 過去の時間にあるのです。

仮に肥満であるならば、 空腹任せに好きなもの、 腹いっぱいに食べたとか、 運動不足であったとか、 はたまた、心や病んでいて、 過食を余儀なくされたなど、 肥満になって当然の、 過去の経緯があるのです。

肥満を解消したければ、 過去の経緯を省みて、 肥満にならない生活に、 変えていくしかありません。

たった一度の人生を、 夢あるものにしたければ、 「反省猿」も及ばない、 過去から学ぶ生き方を、 実践すれば良いのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

「ゆとりとゆるみ」は紙一重。

「ゆとり」、「ゆとり」と 人は言う。 「ゆとり」を持って 生きろと言う。

確かに「ゆとり」は必要で、 心と身体の健康を、 保つためには欠かせない、 「栄養源」と言えましょう。

しかし、「ゆとり」の解釈を、 自分の都合で変えたなら、 「ゆるみ」「たるみ」の元になる。

山あり谷ある人生の、 あらゆる場面で速やかに、 無理なく、無駄なく、適切に、 適応するには、何よりも、 「ゆとり」がなければなりません。

一般的にいうならば、 不平不満がある時や、 不安、緊張、焦りなど、 心が動揺する時に、 「ゆとり」をなくしてしまいます。

さらに加えて言うならば、 自分の世界の中でしか、 通用しない考えに、 こだわり続けてとらわれて、 思い込んでは決めつける、 そうした思いでいる時も、 心に「ゆとり」は持てません。

心の「ゆとり」というものは、 常に、冷静 沈着に、 楽観的かつ柔軟な、 思考で物ごと考える、 ところに生まれてくるのです。

「ゆとり」があるということは、 あらゆる場面や状況に、 適宜、対応できるため、 平和に暮らして行けるでしょう。

「ゆとり」というのはストレスの、 心的圧力、和らげる、 「緩衝帯」である上に、 逆境、困難乗り越える、 力を補充するための、 「安全地帯」であるのです。

「ゆとり」の意味を履き違え、 「ゆるみ、たるみ」にならぬよう、 「ゆとり」の糸をピンと張り、 正しく機能するために、 常に点検、調整を、 怠ることのないように。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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子育て教育、その意味は。

子どもを育てるその「意味」と、 子どもを育てる「育て方」「関わり方」というものが、 解らなければ子育ては、 容易なことではありません。大変苦労が要るものと、 覚悟をしなけりゃなりません。

子どもを育てるその「意味」は、 未熟で何もわからない、 子どもが社会を健やかに、 生きてくために必要な、「気力」「知力」に「体力」を、 養うことにあるのです。

中でも「気力」というものは、 車で言えば「エンジンの、 役目」を果たす大切な、 力であってストレスに、 打ち克ち逆境、困難を、 へこたれないで乗り越える、 「折れない心」の元になる、 「力」であると言えましょう。

も少し詳しく言うならば、 「折れない心」は自らを、 「かけがえのない存在」と、 思う「自尊の感情」と、 自分に対する「可能性」、 常に信じて期待する、 「自己効力感」にさらに又、 自分は役に立つという、 「有用感」を持つことで、 身につくものであるのです。 つまり、自信の元である、 自己肯定観を育てます。

いくら頭が利口でも、 飛び、跳ね、走るが得意でも、 「よわ気」で「やる気」がなかったら、 途中で「エンスト」するだけで、 人生、ムダ花「枯れすすき」、 その後の人生、うつうつと、 暮らしていくしかないのです。

現に世間にゃ「五月病」、 就労困難、出社拒否、 余儀なくされて不幸にも、 中途でリタイアする人の、 多さがすべてを語ります。

学生時代は16年‼、 その後は誰もが「社会人」、 すべての「子育て教育」の、 最終ゴールにあるものは、 子どもが元気で健やかに、 社会を生きていくための、 力を与えてやることで、 そのため親には適切な、 「関わり方」や「育て方」、 一生懸命、学ぶという、 義務と使命があるのです。

そういう意味で考えりゃ、 親子がともに学び合う、 時間が「子育て教育」の、 時間なんだとわかるはず。

「スマホ片手」の子育てや、 親の都合の善し悪しで、 「気分任せ」の子育ては、 子どもにとっては最大の、 不幸であると言えましょう。

世間りゃいろんな親がいて、 子どもが「子ども」を生むような、 未熟な親に育てられ、 育児放棄や虐待で、 生死の境で生きている、 子どももいれば反対に、 過保護に加え過干渉、 常に子どもを制約し、 身動きできない状況で、 苦しむ子どももいるのです。

子どもにとって恐ろしい、 親というのは言葉では、 常に「理解と愛情」の、 仮面をつけて、ぬけぬけと、 「あなたのためよ」と言いながら、 いつの間にやら、じわじわと、 自分の好みや価値観を、 一方的に押し付ける、 我欲が伴う「育て方」

さらに加えて言うならば、 「育ち」は良くても自らの、 「自分育て」が悪すぎて、 やんちゃをやってきた親の、 「気分任せ」の「育て方」。

いずれも、甲乙つけがたい、 子どもにとっては最悪の、 「育て方」だと言えるでしょう。

こうした家庭の子育てが、 三面記事に載るような、 事態にならないことだけを、 お祈りするしかありません。

本来、子育て教育は、 子どもの利益を中心に、 施すものであるために、子どもの行動全般を、「良い」とか「悪い」と決めつけず、 子どもにとって「損なのか」、 そてとも「得なことなのか」、 そうした視点で冷静に、 判断しなけりゃなりません。

「良い」「悪い」という判断は、 他人が決めるものであり、 「損か得か」の判断は、 子ども自身が解るもの。

さらに加えて言うならば、 子どもと会話をする時は、 「母は、○○、▽▽と、 思うがあなたは『どう思う』」と、 「伺う会話」を心掛け、 話の語尾に「どう思う?」、 一言、添えて終わります。

もしもその時、子どもから、 「自分はそうは思わない」、 期待外れの返事でも、 あるがままに受け入れて、 「そうか、なるほどわかったよ」、 その一言で終わります。

ちなみに、「伺う会話」には、「気づき」を促す意味があり、気づけば納得するために、 次に「やる気やその気」など、 「気力」が湧いてくるために、 「行動力」が生まれます。

「気づき」→「気力」→「行動」は、 切っても切れない仲良しの、 「三兄弟」であることを、 常に覚えておくのです。

子どもを納得させるため、 くどくど説得してみたり、 叱責するのは逆効果。仮に子どもが拒否しても、 親の思いは十分に、 届いているからご安心。

受容、共感、傾聴は、 「伺う会話」で生まれます。

「褒めて育てる」子育てや、 できないことを支援する、 「甘えさせる」子育てが、 推奨されるその訳は、 いずれも子どもの「肯定観」、 育むためのものである。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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奉仕と利益の関係は。

「奉仕」の先の「利益」とは、 どんな「利益」があるのだろう。

玉子が先か鶏の、 どちらが先かは知らないが、 多くの人に支えられ、 繫盛している店を持つ、 商売人というものは、 「利益」は後でその前に、 「奉仕」が先と考える。

中には「利益」を優先し、 儲かることだけ考えて、「奉仕」いわゆるサービスは、 もってのほかと考える、 商売人も見かけるが、 そうした店というものは、 客はまばらで閑散と、 閑古鳥だけ飛んでいる。

「奉仕→利益」と捉えるか、 「利益→奉仕」と捉えるか、 後先(あとさき)違いの話だが、 「奉仕」を優先することで、 後で「利益」を得るという、 考え方が大事です。

も少し、詳しく言うならば、 奉仕を先に行えば、 利益は計算しなくても、  自ずと後からついてくる。

「奉仕→利益」 の考えは、 人が生きるということの、 基本であると心得る。

生きる基本は「奉仕」です。 親が子どもを大切に、育てることも奉仕なら、 農家の人が新鮮な、 農作物を作るのも、 使い勝手の良いものを、 昼夜を問わず考えて、 生産している人たちも、 すべては世のため、人のため、 「奉仕」の心に支えられ、 「奉仕」を実践するために、 努力を重ねているのです。

ところで、人からあてにされ、 頼りにされて応えたり、 困った人がいたならば、 力を貸してあげるのも、 「奉仕」であってそのことで、 「役立つ自分」の存在が、 実感できるわけだから、 正に人生、最高の、 「利益」を得たと言えるでしょう。

「自己有用感」というものは、 「奉仕」を続けるその中で、自分は「役立つ存在」と、 感謝や称賛される時、 はじめて感じるものである。

さらに加えて言うならば、 自分を尊ぶ感情や、 常に自分に期待する、 「効力感」が持てるなら、 自信につながる「肯定観」、 望まなくても得られます。

「生きがい」「やりがい」「幸せ」は、 「自分が存在してる」という、実感なければ叶わない。

ちなみに人が行き来する、 場所を表す「出入口」、 その名の由来は知らないが、 はじめに「出す」から「入る」という、 そう言う意味があるみたい。

言葉遊びじゃないけれど、 鳴かず飛ばず人たちが、 入って出すのが「入出口」、 我欲の強い人たちが、 とにかく好む「入入口」、 心も財布もしなびれた、 貧乏人の「出出口」の、 三つの「口」は絶対に、通りたくない「口」である。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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