人つき合いとはこんなもの。

人つき合いとはこんなもの。

いろんな人がいる中で、 他人の空似(そらに)と言われても、 「同一人」ではありません。

この世は「他人」の集まりで、 顔も容姿も違うように、 性格、気質に価値観や、 好みがそれぞれ違います。

そのため人との付き合いは、 伺い合って折り合って、 折り合えなければ「さよなら」と、 距離をとってもいいのです。

つまり、人との関係は、 「お互いさま」の関係で、つき合わなければなりません。

も少し詳しく言うならば、 自分の意見を言う時は、 命令したり押し付ける、 話をしてはいけません。 話の語尾には「どう思う、 如何でしょうか」伺いを、 立てる話をするのです。

話の結果が「そうだね」と、 相手が納得したならば、 互いに折り合い反対に、 相手が「そうは思わない」、 拒否の思いがある時は、 「お互いさま」と割り切って、 すっきりさっぱり別れましょう。

ところで、まじめな人間は、 「仲良しこよし」の関係が、 人つき合いの基本だと、 思い込んでいるために、 自分を犠牲にしてまでも、 人つき合いを完璧に、 取り結ぼうとするのです。

人つき合いで「生きにくさ」、 「関わりづらさ」を持つ人は、 こうした「つき合い」しています。

人つき合いの良い人は、 互いの「好み」を尊重し、 互いに分け合い喰っている。

人つき合いが下手な人。 相手の「好み」を喰いすぎて、 腹痛(はらいた)起こしている人か、 自分の「好み」を押しつけて、 ありがた迷惑かけてます。

人つき合いというものは、 「お互いさま」の感覚で、 互譲の精神仲人(なこうど)に、 関わることが大事です。

人とトラブル原因は、 相手の「課題」に配慮せず、 入り込むとか反対に、 自分の「課題」に同様に、 入り込まれることにより、 起こると言われているために、 着かず離れず干渉も、 無視もしないという距離を、 保たなければなりません。

生きてく上で避けられない、 人つ付き合いを円滑に、 保つためには唯一つ、 誰の課題かそのことを、 しっかり認識した上で、 関わらなければなりません。

ちなみに「課題」というものは、 誰が成すべきことなのか、 誰の問題なのかなど、 「課題の分離」ををした上で、  自分の課題の範囲内、 誠意を持ってつき合えば、 トラブルことはないでしょう。

さらに加えて言うならば、 人とのトラブル避けながら、 平穏無事(へいおんぶじ)に暮らすには、 例え意見が違っても、互いに尊重するという、 「お互いさま」の「緩衝帯(かんしょうたい)」、 是非とも備えて置きましょう。

そうか、なるほどそのとおり、 言われてみれば、ごもっとも‼

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人生は、「音声出力」控えめに

人生は、「音声出力」控え目に。

歌に映画にバラエティー、 今やテレビは生活に、 欠かせぬものとなりました。  テレビと言えば映像と、 音声ふたつが「コラボ」して、 見ている人に感動と、 満足与えているのです。

日々の暮らしで見てみると、 生活態度や行動は、 画面に写る「映像」で、 声や言葉は「音声」と、  例えることができるでしょう。

ところでテレビは映像と、 音声ふたつは欠かせぬが、 日々の暮らしに「音声」は、 あまり必要ありません。

「口先軽く、腰重い」、 言葉達者でヘラヘラと、 理屈、能書き言うけれど、 見合う行動しなければ、 「大ボラ吹き」になるだけで、 信用無くしていまいます。

有言実行できるなら、 それらにこしたことはない。 しかしそれらが無理ならば、 むしろ黙っていた方が、 はるかに信用得られます。

有言ばかりで不実行。 これじゃ救いの手立てなく、 いくら口先達者でも、 「おバカな人」と言われたら、 返す言葉はないだろう。

黙(もく)して語らずひたむきに、 やるべきことをやるという、 姿に人は好感と、 信頼感を持つのです。

言葉で言うのはたやすいが、 姿勢や態度や姿で示すのは、 容易なことではありません。

人生ならばなおのこと、 音声出力、控え目に、 映像出力、全開で、 生きてくことが大事です。

さらに加えて言うならば、 自慢話に言い訳や、 ハラスメントになるような、 罵声を浴びせる言葉など、 不快な音声出力は、 全く必要ありません。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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無駄なお金は使わない。

無駄なお金は使わない。

「あったらいい」のは無くていい、 無くてはならないものを買う。

ところが現代社会では、 あっても無くてもいいものが、 そこら中(じゅう)に溢(あふ)れてる。

現代人のおおよそは、 知恵はなくても財布には、 なまじお金があるために、 目につくものを欲しがって、 手当たり次第買いまくり、 使いもせずに放っておく。

中にはおバカな人もいて、 消費は美徳とおだてられ、 何を買ったか忘れ去り、 あちらこちらに散らかして、 平和ボケして暮らしてる。

ところでこれから話すのは、 中味はウソのようですが、 ホントにあった話です。

所は東京世田谷の、 高級住宅建ち並ぶ、 その一角にありました。 土地はおそらく?億円、 家はおそらく?千万、 坪に換算(かんさん)してみても、 相当額になるでしょう。

ところでそこのお家(うち)には、 冷蔵庫なる機器類は、 一台たりともありません。 理由を尋ねてみたところ、 徒歩三分の圏内に、 大型スーパーコンビニや、 商店街が目白押し。

冷蔵庫内に保存する、 必要性はないらしく、 その日のうちに使い切り、 明日は新たに買うという。

必要な時、欲しいもの、 近くでいつでも買えるから、 高価なお金を支払って、 冷蔵、冷凍するための、 機器は必要ないと言う。

話もここで終るなら、 無駄を省いて倹約を、 していることと思うかも。 ところがどっこいこの家主、 話はまだまだ続きます。 ここで終っちゃおりません。

普段、あるべき冷蔵庫、 そのスペースの坪単価、 換算すれば高額で、 わずかな食材、食べ物を、 保存するのに備えても、 無意味であって無駄と言う。

それよりほかの目的に、 有効活用した方が、 何より得だと言うのです。

そうか、なるほど、ごもっとも、 まったく恐れ入りました。

一般的な家庭でも、 ここまで徹底しなくても、 「文殊の知恵」を出してみりゃ、 「雀の涙」であろうとも、 少しは倹約できるかも。

収入、増やしていくことも、 無駄を省(はぶ)いて節約や、 倹約するということも、 その目的は同じです。

中にはこういう人もいる。 安売りスーパー探し当て、 得した気分でいるけれど、 仮に一○○円得しても、 車走らせガソリンが、 三〇〇円もかかったら、 一体どうなることでしょう。

「今」一世を風靡する、 テレビ通販ショッピング。  扱う品というものは、 「あったらいい」のもあるけれど、 「なくてもいい」がほとんどで、 「こんなものまで売るのか」と、 「驚き、桃ノ木、山椒の木」、 いやはや、関心しきりです。

「ちょっと待てよ」と間を置いて、 売り手の「餌食(えじき)」にならぬように、  冷静沈着、落ち着いて、 判断しないといけません。

言われるままに何もかも、 その気になって買っていりゃ、 「自前のお店」が持てるでしょう。

ところで人生、生きるには、 人付き合いが大事です。 金銭的な節約や、 「もの」に対する倹約は、  勿論、大事であるけれど、 人付き合いを避けるとか、  億劫(おっくう)がるなど付き合いを、 「節約、倹約」することは、  いかがなものか思います。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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気づき、気づくということは。

「気づき・気づく」ということは。

本来、人には「気を配り、 気になり、気にする、気をつける」、「心気(しんき)いわれる性質が、 外部のできごと情報に、 「触手」を伸ばしているような、 状態保っているのです。

その「気」に何かが触れた時、 「ハッと」感じる感覚が、 「気づき」「気づく」ということで、 生きるためには欠かせない、 「情報機関」のようなもの。

直感的に感じたり、 「閃(ひらめ)く」ことも同様に、 「気づき」によって生まれます。

ところで「気づく」ということは、 「なるほどなぁ」と心から、 納得、合点(がてん)がいくことで、 そこには悩みや戸惑いや、 不安や迷いはありません。

日々の暮らしで生きがいや、 幸せ感じる生活は、 生活行動全般に、 自ら納得しているか、 そうでないかで決まります。

ひとつひとつの行動に、 自ら納得していれば、 予期せぬことが起こっても、 きちんと対応するでしょう。

「気づく」ためにはこだわりや、 とらわれ感に思い込み、 決めつけ感を持たないで、 あるがままに受け入れる、 心がなければなりません。

さらに加えて言うならば、 「気になり、気にする、気をつける」、 「心気(しんき)」の「触手」を感度良く、 保たなければなりません。

「触手」を常に感度良く、 保つためには冷静な、 判断力にさらに又、 「触手」が好む好奇心、 興味や関心持つことが、 大事であると言われます。

ちなみに「気づき」というものは、 「気力」を生んでさらに又、 「行動力」高めます。

「気づき」→「気力」→「行動」は、 切っても切れない「仲」であり、 生きてく上で重要な、 「関係性」を持つのです。

情報社会の現代を、 難なく賢く生きるには、 いろんな情報ある中で、 自分に役立つ情報を、 「気づき」を持って正確に、 選択しないといけません。

のほほん気分でのんびりと、 平和ボケしていたならば、 「ババ」と掴んで泣きを見る、 哀れな人生送るでしょう。

五感を磨(みが)いて六感の、 感度を高めて生きてれば、 あらゆることに新鮮な、 「気づき」が得られることでしょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「心の風邪」はひかないで。

心の風邪はひかないで。

「心の風邪」をひく人は、 「裸(はだか)」で街を歩いてる。

何も着ないで街中(まちなか)を、 裸で歩いていたならば、 法令違反で逮捕され、 厳しいお叱り受けるでしょう。

人間社会も同じこと。  社会の中ではたくさんの、 人が生活しています。

原始の世界に憧れて、 裸で生活する人は、 たまにいるかもしれないが、 多くの人はそれなりに、 社会を生きていく上で、 見合う「衣」を着けてます。

ところで社会と言う場所は、 「あなた」一人が住んでいて、 自由気ままに生きられる、 場所はひとつもありません。

社会の中で健やかに、 生きるためには必要な、 「衣」をつけてさらに又、 社会が求める着こなしを、 しっかりしないと厄介な、 「心の風邪」をひくでしょう。

マナー、モラルに常識や、 道徳心や倫理感。 さらに加えて言うならば、 真面目、正直、素直さに、 謙虚の「衣」を着(つ)けたなら、 「心の風邪」に罹(かか)らずに、 きっと『あなた』は住む街で、 自分の居場所を持てるでしょう。

心の風邪」と言うものは、 あらゆる不幸を招き入れ、 人の一生ダメにする、 「疫病神」のようなもの

忌(い)み嫌われて村八分。 生きてる価値も実感も、 無い無い尽しの人生じゃ、 あまりに惨(みじ)めな話です。

かけがえのない人生を、 幸せ求めて生きるには、 「心の風邪」をひかぬように、 しっかり身支度(みじたく)するのです。

人間社会を健やかに、 生きるためには何ごとも、 社会が定める「形」とか、 「ルール」を守って生きること。

真面目、正直、素直さや、 謙虚な態度というものを、 「形」の衣とするならば、 常識マナーにモラルとか、 道徳心や倫理とは、 「ルール」の衣を言うのです。

ふたつの衣を着こなして、 真面目に生きているならば、 「心の風邪」をひくことは、 おそらくないと思います。

ちなみに風邪をこじらせて、 長患(ながわずら)いの生活を、 している人は速やかに、 社会の「衣」を身につけて、 生きて行くなら少しづつ、 「心の風邪」は快方に、 向かっていくと思います。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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このまま朝が来なけりゃいい。

「このまま朝が来なけりゃいい」・・のは、心が疲れているのです。

「このまま朝が来なけりゃいい、 早く明日が来てほしい」、 人生いろいろ夜(よ)はあるが、 朝待つ夜で暮らしたい。

日々の暮らしはさまざまで、 何をやってもうまくいき、 気分わくわく、ノリノリで、 早く明日(あした)が来(こ)ないかと、 眠る時間が惜しまれて、 幸せ感ずる時もありゃ、 やること成すことことごとく、 失敗続きでいたならば、 気分は落ち込み、気が滅(め)入り、 何もする気がしなくなり、 このまま朝が来なけりゃいい、 夜が明けずにいてくれと 思う気持ちになるでしょう。

素直でまじめに生きてれば、 こうした気持ちが募ります。

人の心というものは、 至って単純シンプルで、 快を求める一方で、 不快を避けているのです。

早く明日が来ないかと、 元気はつらつ生きてれば、 それらにこしたことはない。

「山あり谷あり」浮き沈む、 人生という時間には、 疲れる時もあるでしょう。 落ち込む時もあるのです。

そうした時は無理をせず、 心の階段、踊り場で、 のんびりゆったり休むのも、 心の健康保つには、 大事なことだと思います。

「このまま朝が来なけりゃいい」、 そういう気持ちになる時は、 心が疲れているのです。

頑張ることはありません。 自分の気持ちをあるがまま、 受け入れながら「朝を待つ」、 夜を過ごせばいいのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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成功パターンのつくり方。

成功パターンのつくり方。

人は失敗した時は、 それ「相応」の反省や、 後悔すると思います。 しかし、成功した時は、 喜ぶだけが「関の山」。

大事なことは成功に、 至った経緯や原因を、 徹底的に分析し、 「結果考察(けっかこうさつ)」してみると、 成功パターンが理解でき、 次に行動する時に、 そうしたパターンが活(い)かされて、 成功率を高めます。

いつの時代も社会には、 勝ち組、負け組いるけれど、 勝ち組イコール「勝ちグセ」と、 負け組イコール「負けグセ」と、 言われるパターンを持ってます。

勝ち組、負け組決めるのは、 深く掘り下げ考える、 結果を考察しているか、 そうでないかの違いです。

も少し詳しく言うならば、 成功パターンの反対の、 失敗パターンも同様に、 結果を考察してみれば、 結果を招いた原因や、 経過が一目(ひとめ)で解ります。

そうした考察続ければ、 成功、失敗両方の、 ふたつのパターンが理解でき、 次に成功するための、 新たなパターンが生まれたり、 今あるパターンを変えるなど、 ワンパターンに陥らず、 パターンの多様化、図れます。

何をするにも「方法や、 手段」というのがあるように、 人にはそれぞれ生き方や、 生活パターンがあるのです。

日々の生活省(かえり)みて、 常に健やか幸せに、 生きるパターンを見つけましょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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身の丈を知り分相応で生きる②

身の丈を知り、分相応に生きること。パート2

誰であろうと人は皆(みな)、 汗水流して努力して、 自ら稼いだお金だけ、 使えることになってます。

競輪、競馬に宝くじ、 当たらないのが無難です。 不労の金を手にすれば、 不幸を招く元になる。

人はそれぞれ身の程の、 器(うつわ)というのを持ってます。 いくらお金があろうとも、 使いこなしが下手(へた)ならば、 やがていつかは身の破滅、 招く結果になるでしょう。

お金があるから幸せに、 暮らしていける人もいりゃ、 お金があるため慢心し、 お金の魔力にとり憑(つ)かれ、 有り金はたいたそのあげ句、 二進(にっち)も三進(さっち)ももいかなくて、 借金地獄で生きている、 哀れな人もいるのです。

こつこつまじめに働いて、 汗水流して得た金は、 「人」も「お金」もお互いに、 幸せづくりに励みます。

たった一度の人生を、 心豊かに健やかに、  生きるためには「身の丈を  知り分相応」に慎ましく、  生きてく意外にありません。

分相応に生きるには、 「無理、無駄、無意味」なことだけは、 しないと心に決めてれば、 「無難」に生きて行けるでしょう。

ちなみに「無難」は「難が無い」、 そういう意味があるために、 頭に「無」のつく行動は、 慎まなければなりません。 

人を羨(うらや)むこともなく、 自ら卑下することもなく、 「今の自分」を受け入れて、 真面目に生きて行くことが、 最も賢い生き方で、 「分相応」に生きている、 立派な証しになるのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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身の丈を知り分相応で生きる①

身の丈を知り、分相応に生きる。パート1

「立って半畳、寝て一畳、 一日食して米、三升(さんしょ)」

言葉の意味というものは、 人が立つには半畳の、 広さがあれば十分で、 まして寝るには一畳の、 広さがあれば物足りる。

さらに、大飯喰らいでも、 三升の米があるならば、 賄(まかな)いきれるというのです。

所詮、人の「身の丈」は、 ここからスタートしています。

しかし、その後の人生で、 一生懸命、努力すりゃ、 知らないうちに「身の丈」は、 大きく伸びていくけれど、 怠け呆(ほう)けていたならば、 見るも無残に縮みます。

家柄、家族に恵まれて、 「坊ちゃんお嬢さん」育ちでも、 その後の人生、お粗末な、 「自分育て」をしたならば、 人生、ムダ花枯れすすき、 「身の丈」、縮むばかりです。

器(うつわ)イコール「身の丈」は、 「自分育て」の善し悪しが、 大きく影響するために、 日々の暮らしや生活で、 常に真面目に正直に、 謙虚な気持ち持ちながら、 育てていくしかないのです。

そして、自分の「身の丈」に、 合う生き方をすることが、 「分相応」に生きている、 ことの証しになるのです。

「立って半畳、寝て一畳、 一日食して米、三升(さんしょ)」

も少し詳しく言うならば、 見栄を張るなど背伸びして、 おごり高ぶることがなく、 謙虚な気持ちを忘れずに、 「素直に生きろ」という意味と、 人と比べて落ち込んで、 「自分はダメだ」と否定して、 「卑屈になるのはやめろ」という、 そうした意味もあるのです。

過大評価もしなければ、 過小評価もしてはダメ‼ 常に自分の「身の丈」に、 合う「分相応」の生き方で、 「幸せつかめ‼」と言うのです。

そうか、なるほどそのとおり、 言われてみれば、ごもっとも‼

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「外見力」を高めよう。

「外見力」を高めよう。

「ボロは着てても、心は錦」、 「人は見かけによらぬもの」、 言葉の意味というものは、 人というのを外見で、 判断してはいけません。

仮に貧乏していても、 心豊かに生きている、 人もたくさんいることを、 教えてくれる言葉です。

言葉の意味が解るのは、 昭和生まれかその前の、 おそらく「むかし」の人でしょう。

現代人のほとんどは、 きっと、おそらく、確実に、 「ボロ」はそのまま「ボロ」と見る。 だから「見かけ」が大事です

たとえ家柄立派でも、 地位や名誉があろうとも、 いくら頭が利口でも、 「ボロ」を着てたら貧乏人、 人は「見かけ」で決まります。

現代社会を生きるには、 人は「見かけ」によるものと、 肝に銘じていなければ、 誤解されたりさげすまれ、 思わぬ損をするでしょう。

見た目、見かけにうわべなど、 「外見力」を高めれば、 バカも学者に見えるかも。  ブ?も美人に見えるから、 綺麗に化粧を施して、 外見力を高めたら、 いかがなものか、と思います。

特に現代社会では、 人と人との関係が、 希薄になっている上に、 人の心や心情を、 察することや、 その人なりを見極める、 時間と機会がないために、 人間としての「性能」が、 どんどん落ちているのです。

そのため「ボロ」に隠れてる、 「錦」に触れることはなく、 しわざ、ふるまい身のこなし、 見た目、見かけにうわべなど、 単純、明快、シンプルに、 見える範囲で評価する

多少、中味が粗末でも、 「壁に耳あり、障子に目」、 後で「泣き面かかぬ」ように、 常に見られていることを、 承知の上で生きること。

現代社会は人の目を、 気にして「見かけ」を良くしなきゃ、 思わぬところで誤解され、 痛くもない腹、探られる。

「馬子(まご)にも衣裳」と言うでしょう。 もしも予算が許すなら、 予算の範囲で着飾って、 人に違和感与えずに、 「キンピカ」気分で暮らしましょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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