このまま朝が来なけりゃいい。

「このまま朝が来なけりゃいい」・・のは、心が疲れているのです。

「このまま朝が来なけりゃいい、 早く明日が来てほしい」、 人生いろいろ夜(よ)はあるが、 朝待つ夜で暮らしたい。

日々の暮らしはさまざまで、 何をやってもうまくいき、 気分わくわく、ノリノリで、 早く明日(あした)が来(こ)ないかと、 眠る時間が惜しまれて、 幸せ感ずる時もありゃ、 やること成すことことごとく、 失敗続きでいたならば、 気分は落ち込み、気が滅(め)入り、 何もする気がしなくなり、 このまま朝が来なけりゃいい、 夜が明けずにいてくれと 思う気持ちになるでしょう。

素直でまじめに生きてれば、 こうした気持ちが募ります。

人の心というものは、 至って単純シンプルで、 快を求める一方で、 不快を避けているのです。

早く明日が来ないかと、 元気はつらつ生きてれば、 それらにこしたことはない。

「山あり谷あり」浮き沈む、 人生という時間には、 疲れる時もあるでしょう。 落ち込む時もあるのです。

そうした時は無理をせず、 心の階段、踊り場で、 のんびりゆったり休むのも、 心の健康保つには、 大事なことだと思います。

「このまま朝が来なけりゃいい」、 そういう気持ちになる時は、 心が疲れているのです。

頑張ることはありません。 自分の気持ちをあるがまま、 受け入れながら「朝を待つ」、 夜を過ごせばいいのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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成功パターンのつくり方。

成功パターンのつくり方。

人は失敗した時は、 それ「相応」の反省や、 後悔すると思います。 しかし、成功した時は、 喜ぶだけが「関の山」。

大事なことは成功に、 至った経緯や原因を、 徹底的に分析し、 「結果考察(けっかこうさつ)」してみると、 成功パターンが理解でき、 次に行動する時に、 そうしたパターンが活(い)かされて、 成功率を高めます。

いつの時代も社会には、 勝ち組、負け組いるけれど、 勝ち組イコール「勝ちグセ」と、 負け組イコール「負けグセ」と、 言われるパターンを持ってます。

勝ち組、負け組決めるのは、 深く掘り下げ考える、 結果を考察しているか、 そうでないかの違いです。

も少し詳しく言うならば、 成功パターンの反対の、 失敗パターンも同様に、 結果を考察してみれば、 結果を招いた原因や、 経過が一目(ひとめ)で解ります。

そうした考察続ければ、 成功、失敗両方の、 ふたつのパターンが理解でき、 次に成功するための、 新たなパターンが生まれたり、 今あるパターンを変えるなど、 ワンパターンに陥らず、 パターンの多様化、図れます。

何をするにも「方法や、 手段」というのがあるように、 人にはそれぞれ生き方や、 生活パターンがあるのです。

日々の生活省(かえり)みて、 常に健やか幸せに、 生きるパターンを見つけましょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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身の丈を知り分相応で生きる②

身の丈を知り、分相応に生きること。パート2

誰であろうと人は皆(みな)、 汗水流して努力して、 自ら稼いだお金だけ、 使えることになってます。

競輪、競馬に宝くじ、 当たらないのが無難です。 不労の金を手にすれば、 不幸を招く元になる。

人はそれぞれ身の程の、 器(うつわ)というのを持ってます。 いくらお金があろうとも、 使いこなしが下手(へた)ならば、 やがていつかは身の破滅、 招く結果になるでしょう。

お金があるから幸せに、 暮らしていける人もいりゃ、 お金があるため慢心し、 お金の魔力にとり憑(つ)かれ、 有り金はたいたそのあげ句、 二進(にっち)も三進(さっち)ももいかなくて、 借金地獄で生きている、 哀れな人もいるのです。

こつこつまじめに働いて、 汗水流して得た金は、 「人」も「お金」もお互いに、 幸せづくりに励みます。

たった一度の人生を、 心豊かに健やかに、  生きるためには「身の丈を  知り分相応」に慎ましく、  生きてく意外にありません。

分相応に生きるには、 「無理、無駄、無意味」なことだけは、 しないと心に決めてれば、 「無難」に生きて行けるでしょう。

ちなみに「無難」は「難が無い」、 そういう意味があるために、 頭に「無」のつく行動は、 慎まなければなりません。 

人を羨(うらや)むこともなく、 自ら卑下することもなく、 「今の自分」を受け入れて、 真面目に生きて行くことが、 最も賢い生き方で、 「分相応」に生きている、 立派な証しになるのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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身の丈を知り分相応で生きる①

身の丈を知り、分相応に生きる。パート1

「立って半畳、寝て一畳、 一日食して米、三升(さんしょ)」

言葉の意味というものは、 人が立つには半畳の、 広さがあれば十分で、 まして寝るには一畳の、 広さがあれば物足りる。

さらに、大飯喰らいでも、 三升の米があるならば、 賄(まかな)いきれるというのです。

所詮、人の「身の丈」は、 ここからスタートしています。

しかし、その後の人生で、 一生懸命、努力すりゃ、 知らないうちに「身の丈」は、 大きく伸びていくけれど、 怠け呆(ほう)けていたならば、 見るも無残に縮みます。

家柄、家族に恵まれて、 「坊ちゃんお嬢さん」育ちでも、 その後の人生、お粗末な、 「自分育て」をしたならば、 人生、ムダ花枯れすすき、 「身の丈」、縮むばかりです。

器(うつわ)イコール「身の丈」は、 「自分育て」の善し悪しが、 大きく影響するために、 日々の暮らしや生活で、 常に真面目に正直に、 謙虚な気持ち持ちながら、 育てていくしかないのです。

そして、自分の「身の丈」に、 合う生き方をすることが、 「分相応」に生きている、 ことの証しになるのです。

「立って半畳、寝て一畳、 一日食して米、三升(さんしょ)」

も少し詳しく言うならば、 見栄を張るなど背伸びして、 おごり高ぶることがなく、 謙虚な気持ちを忘れずに、 「素直に生きろ」という意味と、 人と比べて落ち込んで、 「自分はダメだ」と否定して、 「卑屈になるのはやめろ」という、 そうした意味もあるのです。

過大評価もしなければ、 過小評価もしてはダメ‼ 常に自分の「身の丈」に、 合う「分相応」の生き方で、 「幸せつかめ‼」と言うのです。

そうか、なるほどそのとおり、 言われてみれば、ごもっとも‼

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「外見力」を高めよう。

「外見力」を高めよう。

「ボロは着てても、心は錦」、 「人は見かけによらぬもの」、 言葉の意味というものは、 人というのを外見で、 判断してはいけません。

仮に貧乏していても、 心豊かに生きている、 人もたくさんいることを、 教えてくれる言葉です。

言葉の意味が解るのは、 昭和生まれかその前の、 おそらく「むかし」の人でしょう。

現代人のほとんどは、 きっと、おそらく、確実に、 「ボロ」はそのまま「ボロ」と見る。 だから「見かけ」が大事です

たとえ家柄立派でも、 地位や名誉があろうとも、 いくら頭が利口でも、 「ボロ」を着てたら貧乏人、 人は「見かけ」で決まります。

現代社会を生きるには、 人は「見かけ」によるものと、 肝に銘じていなければ、 誤解されたりさげすまれ、 思わぬ損をするでしょう。

見た目、見かけにうわべなど、 「外見力」を高めれば、 バカも学者に見えるかも。  ブ?も美人に見えるから、 綺麗に化粧を施して、 外見力を高めたら、 いかがなものか、と思います。

特に現代社会では、 人と人との関係が、 希薄になっている上に、 人の心や心情を、 察することや、 その人なりを見極める、 時間と機会がないために、 人間としての「性能」が、 どんどん落ちているのです。

そのため「ボロ」に隠れてる、 「錦」に触れることはなく、 しわざ、ふるまい身のこなし、 見た目、見かけにうわべなど、 単純、明快、シンプルに、 見える範囲で評価する

多少、中味が粗末でも、 「壁に耳あり、障子に目」、 後で「泣き面かかぬ」ように、 常に見られていることを、 承知の上で生きること。

現代社会は人の目を、 気にして「見かけ」を良くしなきゃ、 思わぬところで誤解され、 痛くもない腹、探られる。

「馬子(まご)にも衣裳」と言うでしょう。 もしも予算が許すなら、 予算の範囲で着飾って、 人に違和感与えずに、 「キンピカ」気分で暮らしましょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「報・連・相」では物足りない

報・連・相では物足りない。 

ほう(報)れん(連)そう(相)というものは、 野菜のことではありません。

ビジネススキルに 欠かせない、 報告、連絡、相談の、 頭(かしら)をとって「報・連・相」。

ところで最近この言葉、 ビジネス社会のみならず、  人が交流する場では、 コミュニケーションとるために、 欠かせぬスキルであるために、 猫も杓子も使います。

きちんと報告することや、 連絡事項は遅延なく、 伝えることとさらに又、 独断で判断せずに、 かならず相談するという、 ひとつの「決まり」があるのです。

長年、社会に根付いてる、 「報・連・相」のこの言葉、 確かの「的(まと)」射(い)た言葉だが、 ホントのことを言うならば、 報・連・相では物足りない。

ちなみに野菜のほうれん草、 料理メニューは「おしたし」や、 「サラダ」「ゴマあえ」あるけれど、 「ほうれんソティーは 格別だ。

「報告」すること大事です。 「連絡」すること必要です。 「相談」しなけりゃいけません。 しかし何かが足りません。

物足りないと言ったのは、 「提案」すると言う言葉。 ソティーのティーは「提案」で、 提案するのも大事です。

新たなビジネススキルとは、 報告、連絡、相談に、 提案、加えてみたところ、 「ほうれんソティー」と名を変えて、 立派なスキルになりました。

「報・連・相」も大事だが、 提案という主体的、 能動的な行動は、 ビジネス社会のみならず、 日々の暮らしや生活で、 大事なスキルになるでしょう。

「ほうれんソティー」と食べ合って、 人間関係良くしましょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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ひきこもりへの理解と対応。

ひきこもりへの理解と対応。

8050(はちまるごうまる)問題や、 7040(ななまるよんまる)問題で、 大きな社会問題に、 なって久しい「ひきこもり」。 全国的には相当な、 人が余儀なくされてます。

ひきこもる原因動機は、 人それぞれに違うけど、 苦悩が伴う生活を、 していることは確かです。

本来、人というものは、 「快」を求めて生きるとか、 「不快」を避けて生きるため、 「ひきこもる」という生活は、 「不快」を避けて生きるという、 確かな証しが立つのです。

「熊」を例えに言うならば、 フルシーズンの熊がいる、 現代社会と異なって、 昔の熊というものは、 厳しい冬が来る前に、 いわゆる「熊の穴籠り」、 穴に「こもって」いたのです。

その最大の理由とは、 冬の寒さや環境が、 熊にとっては相当に、 「不快」なものであるために、 回避や逃避の意味を込め、 不快な場所や場面から、 撤退、退避をしたのです

何を言わんとしているか、 察しがつくと思うけど、 現代社会で「ひきこもる」、 人と熊との違いとは、 熊はひとつの理由だが、 人は日常生活で、 いろんな苦悩を抱えます。

その苦悩から回避する、 方法として「ひきこもる」 選択をして自らの、 命を守っているのです。

「ひきこもる」という行為には、 身の安全を確保して、 命を守っていくという、 立派な根拠があるために、 恥ずべきことではないのです。

ところが「こもる」人たちの、 「こもった」あとの心情は、 熊と大きく違います。

不快を避けた熊たちは、 来る春までのんびりと、 安心しながら過ごします。

ところが「こもる」人たちは、 「何て自分はダメなの」と、 自分を否定し嫌悪する、 さらに加えて「生きてても、 価値などない」と自罰する

不快を避ける目的で、 回避したにもかかわらず、 こうした思いを新たにし、 苦悩が伴う生活を、 しているために社会では、 「ひきこもり」という人たちに、  悪い評価をするのです。 

「ひきこもる」という生活を、 改善、克服するために、 「社会復帰」を急がずに、 最も優先することは、 ストレス、逆境、困難に、 打ち克ち、乗り越え、へこたれない、 「折れない心」を身につけて、 「自己肯定観」を持ちながら、 自分らしく生きるという、 「人間復帰」を目指します。

現在、「こもっている人」へ、 心を込めて伝えたい‼ たった一度の人生を、 粗末にしてはいけません。

「ひきこもる」という生活の、 プラスの意味を見出せば、 きっと「あなた」の人生が、変わってくると信じます。 開き直っていきましょう‼ 

かく言う「やぶ」も、もと「ひきこもり」ってよ。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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不登校への理解と対応。

以前は「登校拒否」と呼び、 今では「不登校」一文字で、 括(くく)っているけど実態は、 人それぞれで違います。

文科省では「不登校」は、 学校内では「誰にでも、 起こり得る」と認めつつ、 不登校予防の対策や、 起きた場合の対応が、 うまく図れていないため、 年々、子どもの不登校は、 増加の一途を辿(たど)ってる。

不登校になる原因や、 キッカケである「誘因」は、 いろいろあるが長期化や、 深刻化を増す理由には、 「子ども目線」で考えず、 「大人目線」の対応を、 しているところにあるのです。

ところで子どもの不登校は、 次のふたつに分かれます。

ひとつは子どもが学校に、 「行きたいけれど行けない」のと、 「行けるが行かない」「行きたくない」、 ふたつのパターンに分かれます。

そのため不登校問題を、 解決しようとする時は、 「行けない」理由は何なのか、 「行かない」理由は何なのか、 勿論、原因知ることは、 大事なことであるけれど、 原因ばかりにこだわると、 誰が良いとか悪いとか、 「犯人探し」をしてみたり、 「あの時ああしていたなら」と、 無意味な後悔するだけで、 子どもの不登校問題の、 根本的な解決は、 できないものと心得る。

さらに加えて言うならば、 子どもも親も学校も、 「何とかしたい」と考えて、 いろいろ模索をしてるけど、 子どもがしたい「何とか」の、 意味や目的内容と、 親や学校考える、 「何とかしたい」の内容に、 大きな隔たりあるのです。

子どもがしたい「何とか」の、 意味、目的というものは、 つらい苦しい「生きにくい」、 そうした思いを払拭し、 「楽」な気持ちで過ごしたい、 ただそれだけのことである。

ところが親や学校が、 「何とかしたい」と思うのは、 言わずと知れた「学校」に、 「行って欲しい」や「行かせたい」、 ただそれだけの目的で「登校刺激」を続けます。

これじゃ子どもの不登校を、 解決しようと思っても、 解決どころか反対に、 「分かっちゃいない」と見透かされ、 見捨てられ感、置き去り感、 そうした思いを強くして、 子どもは離れていくでしょう。

現在、多くの不登校の、 子どもが抱く心情は、 自分の評価が低くなり、 「何て自分はダメなの」と、 自己否定に自責感、 自己嫌悪にさらに又、 「こんな自分は生きてても 価値などない」と自罰する、  そうした思いを持ってます。

ですから不登校問題の、 根本的は解決は、 「学校復帰」をするのでなく、 ストレス、逆境、困難に、 打ち克ち、乗り越え、へこたれない、 「折れない心」を身につけて、 「自己肯定観」を持ちながら、 人間らしく生きるという、 「人間復帰」を目指します。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「今を生きる」ということは。

人は誰でも過去があり、 現在を経て未来へと、 時間(とき)の流れを生きてます。

ところで「瀬戸内寂聴」は、 「今を生きる」ということを、 事あるごとに言うけれど、 要は「生き方」そのものが、  どうであるかを言ってます。

ところで人は常日頃、 夢や希望を持ちながら、 「やがていつか」は「行く行く」は、 「こうありたい」や「こうしたい」、 そういう思いで生きてるが、 人の気持ちというものは、 「三日坊主」じゃないけれど、 初めの決意は固くても、 その内だんだん弱くなり、 長く維持していけません。

「たがていつか」は「行く行く」は、 「こうありたい」と言いながら、 口先、乾かないうち、 「今すぐ」「直ちに」「すぐさま」に、 「そうなりたい」と望みます。

「やがて、いつか」ということを、 「時間軸」で考えりゃ、 少なからずも現在(いま)よりは、 未来のことを指すわけで、 なのに「直ちに」「今すぐに」、 「そうないたい」と望むのは、 未来の時間を強引に、 引き寄せるのと同じこと。

ちなみに後悔する人や、 愚痴をこぼしている人は、 「あの時ああしていたならば」、 「こんなはずではなかった」と、 「タラレバ言葉」を連発し、 過去の時間を引き寄せる、 困った人と言えましょう。

「今を生きる」ということは、 未来の時間を引っ張らず、 過去の時間も引っ張らず、 「今」の時間を大切に、 生きてくことを言うのです

夢や希望を持つことは、 大事なことではあるけれど、 そもそも未来の時間とは、 脳が作った「妄想」の、 世界であって確実に、 叶うものではありません。

しかし結果はどうであれ、 夢を叶えていくために、 「今」の時間を「大切に、 生きろ」と言っているのです。

いずれの時間も引っ張ると、 不平不満が募るため、 やるべきことをやらないで、 挙句の果てはダラダラと、 暮らしていくしかありません。

「今」をまともに生きられない、 人というのはこのように、 無理強いをして無駄なこと、 無意味なことに逆らって、 心身共に疲れてる、 哀れな人と言えましょう。

「今を生きる」ということは、 未来の時間や過ぎ去った、 過去の時間に執着し、 こだわることではありません。

「今」、「現在」をあるがまま、 受け入れながら前向きに、 可能性を信じつつ、 常に自分に期待して、 生きてくことを言うのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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不安だからと動く人、動かぬ人の違いとは。

不安だからと動く人。動かぬ人の違いとは。

悩みを抱えている時や、先行き不安がある時は、  行動力がなくなって、 動けないとか動かない、 そうした思いが強くなり、 ますます動きが止まります。

だからといっていつまでも、 不安を理由に動かなきゃ、 さらに不安が高まって、 身動きできない状況に、 陥ることになるでしょう。

不安だからと動く人。

不安は不安と割り切って、 不安をそのまま受け入れて、 行動起して行く人は、 危機に対する管理力、 適応力を持ってます。

人生に、悩みはつきものそのために、 常に「不安」はあるという、 「心の準備」をしておけば、 「備えがあれば憂いなし」、 「転ばぬ先の杖をつく」、 言葉のとおり「不安」には、 戸惑うことはないでしょう。

動く、動かぬそれだけの  ことではあるがその後の、 結果というのは明らかに、 すべての人の生活に  影響力を与えます。

将来、何が起こるのか、 このまま平和に暮らせるか、 日々の暮らしや生活で  不安なことや心配は、 尽きないもので、なくすとか、 なくなるものでもありません。

「ワニの腕立て伏せい」とか、 「亀の腹筋運動」は、 「無理」を表わす例えだが、 それと同じく心配や、 不安を持たずに生きるのは、 無理、無駄、無意味と諦めて、 受け入れるしかありません。

「行動」、無くして変化なし。 行動力のある人は、 心配だから動きます。 不安があるから動きます

不安だからと動く人、 動かぬ人の違いとは、 不安に対する捉え方、 受け止め方など「解釈」の、「仕方」にあると言うのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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