①「冷静さ」を身につける

  1. 冷静さ「冷静思考」を身につける。

「ちょっと待てよ」と溜(た)めてから、 「何故、どうして」と先を読む、 結果の予測ができないと、 場違い行動起こしたり、 人付き合いに不可欠な、 「察する心」は育たない。

失敗、過ち、早とちり、 さらに加えて勘違い、 気分任せの行動は、 冷静さの不足から、 ほとんど生まれているのです。

「事の本質」見極めて、 「事の成り行き」判断し、 「事の経過」を見通して、 「事の成功」成し遂げる、 そうするためには「冷静な、 思考」に基づく行動を、 していくことが大事です。

ヒューマンエラーを防ぐには、 冷静沈着落ち着いて、 深く物ごと考える、 思考がなくてはなりません。

「後で気がつく何とやら」、 それじゃ手遅れ「一巻の、 終わり」であるためこらからは、 「先に気づいて」事を成す、 賢い生き方するのです。

「冷静思考」というものは、 「転ばぬ先の杖」をつく、 「安全思考」であるのです。

さらに加えて言うならば、 「疑る」ことが必要だ。

冷静沈着落ち着いて、「ほんとにこれで良いのか」と、 物ごと深く考えて、 正誤を正しく見極める、 「疑る」心を持つならば、 先入観や思い込み、 なくして生きていけるはず。

「渡る世間に鬼はなし」、 「人を見たら泥棒と、 思え」の諺(ことわざ)あるけれど、 「冷静さ」を持ちたけりゃ、 すべての出来事、物ごとは、 「疑る」ことから始めましょう。

(正しい分析力は冷静な「疑り深さ」から生まれ、 諦めない粘り強さは、「執念深さ」から生まれます) 疑り深く、しつこい人を、侮(あなど)るなかれ‼)

そうか、なるほどそのとおり、 言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

「思考」パターンというものは

思考パターンというものは。

人が生きるということは、 過去から現在、未来への時間の中を生きてるが、 思考パターンというものは、 未来、現在、過去という、 逆の流れをとるのです。

例えば何かをする場合、 「もしかしたら」と将来に、 起こるであろう出来事や、 状況などを予測して、 次に「おそらくそうだよ」と、 根拠がないのに思い込み、 何も始めていないのに、 「そうなるはずだ」「そうなるに決っている」と決めつける、 そうした思考のコンベヤー、 頭の中でぐるぐると、 「めまい」以上に回ってる。

ところで思考パターンとは、 未来、現在、過去という、 思考の流れを持つけれど、 すべての人が「そうなるに、 決まっている」と決めつけて、 こだわる訳ではありません。

「もしかしたら」と思っても、 「やってみなけりゃ解らぬ」と、 現実的に考えて、 無意味な予測はしないという、 利口な人も多数いる。

ところで、未来を予測して、 ネガティブ思考で「そうなる」と、 一方的に決めつけて、 悩みを抱えている人は、 些細なことを気にしたり、 心配性であるために、 悪い結果を予測して、 「一人芝居」をしています。

さらに加えて言うならば、 未来、現在、過去という、 思考パターンのコンベヤー、 ぐるぐる回るその上に、 ネガティブ思考が乗るために、 こうしたパターンが固定化し、 「先入観」と言われてる、 「固定観念」持つのです。

固定観念、持つ人は、 人の話は聞きません。 例え聞いてもうわの空。 自分の思いや考えに、 こだわり続けて生きてます。

ところで固定観念は、 使い様(よう)ではプラスにも、 マイナスにもなる観(おも)いです。

プラスの面では信念や、 中途半端で諦めない、 執着心(しゅうちゃくしん)を生む反面、 被害妄想(ひがいもうそう)さらに又、 関係・誇大(こだい)妄想を、 生むキッカケになるのです。

思考パターンのコンベヤー、 ぐるぐる回るその上に、 どんな「思い」を乗せるかで、 行き着く先が決まります。

ポジティブ思考を乗せるのか、 ネガティブ思考を乗せるのか、 決定するのは自分です。

ポジティブ思考を持つための、 手っ取り早い方法は、 常に自分に期待する、 自己効力感にさらに又、 自分はこの世でただ一人、 「かけがえのない存在」と、     思える「自尊感情」に、 「自分は役に立つ」という、 「自己有用感」を持つのです。

三つの「感情」携えて、 自信を持って生きるなら、 ポジティブ思考のコンベヤー、 いつもぐるぐる輝いて、 回り続けることでしょう。

老婆心かも知れないが、 「イヤだ、参った、困った」と、 ネガティブ思考を乗せたなら、 「万事、休す」と心得る。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

「知識」と「知恵」の違いとは

「知識」と「知恵」の違いとは。

人それぞれの生き方は, 千差万別、さまざまで、 百人百様、皆、違う。

一般的に言うならば、 何をするにも生真面目で、  余計なことには手を出さず、 新たなことへの「冒険」は、 まっぴらごめんと拒否をして、 生きてる人は常日頃、 「基本」「原則」大切に、 「画一的」に生きるという、 既成事実の公道を、 よそ見しないで生きてます。

確かにそれもいいでしょう、 一人ひとりの人生は、 自分で決めれば良いのです。 しかし、よくよく考えりゃ、 ものごと「多様」に考えて、 「基本」に対し「応用」や、 「例外」的なことがらに、 適宜対応するという、 生き方も又味なもの。

ところで話は変わるけど、 知識と知恵の違いとは、 一体どこにあるのでしょう。

いわゆる知識というものは、 「画一的」や「原則」や、 「基本」のことを言うのです。

知恵は「応用」「例外」や、 「多様性」だと言えるでしょう。

私見でものを言うならば、 頭の良さと賢(かしこ)さは、 同じ土俵で計れない。

知恵というのは賢さで、 頭の良さは知識です。 多くの知識を持つ人は、 「利口な人」と言われるが、 どんなに知識があろうとも、 知識を生かす知恵という、「賢さ」なければなりません。

知恵と言う名の賢さが、 なければどんな知識でも、 「枯れ木も山の賑(にぎ)わい」で、 ないよりましだが、つまらない。

さらに加えて言うならば、 頭でっかち小手先の、 知識はあっても経験に、 基(もとづ)く知恵がなかったら、 顔を綺麗に見せようと、 一生懸命、厚化粧、 している様(さま)と同じです。

知識を基に経験を、 たくさん積んでいることが、 勝負どころで勝ちに行く、 知恵が出てきて必ずや、 「勝利」を与えてくれるでしょう。

日々の暮らしや生活で、 あらゆることに関心や、 を抱いて生きていりゃ、 「好奇心」が湧いてきて、 人生、豊かになるでしょう。

「心が老いる」ということは、 「好奇心」がなくなって、 興味や関心、抱かない、 そうした様(さま)を言ってます。

喰わず嫌いじゃいけません。 好まぬことや嫌なこと、 むしろそうしたことがらを、 自ら経験することで、 賢い知恵がつくのです。

知識と知恵の違いとは、 ここらあたりにあるみたい・・ってよ‼

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

「困った人」というものは。

「困った人」というものは。

「困った人」や「変な人」、 この世にごまんといるけれど、 次に書かれる人たちは、 中でも「成績」優秀な、 「困った」人の仲間です。

「たぶん、おそらく 大丈夫」と、 おかしな返事をする人は、 根は優しくてお人好し。

自分の意見を持ちながら、 自信がないから 曖昧(あいまい)な、 言葉を口にするのです。

自然な流れに逆らって、 波風立てている人は、 自ら拳(こぶし)を振り上げて、 落としどころが見つからず、 右往左往(うおうさおう)をしています。

「ああ・・あの時のあのことね」、 変な相槌(あいづち) 打つ人は、 解ったふりをしているが、 何も解っていない人。

さらに加えて言うならば、 「う~ん別に」と知らん顔。 解っているのに答えない、 自ら白・黒つけられない、 優柔不断で「茶かす」人。

決着している問題を、 むし返しては騒ぐ人。 やぶを突いてヘビを出し、 「寝た子」起こして取り乱す。

上澄(うわず)みばかりを飲みたがり、 努力もしないいる人は、 やること成すこと半人前、 そのくせ文句は一人前、 我がまま気まま三人前。

「困った」人や「変な人」、 この世にごまんといるけれど、 せっかく生まれてきたからにゃ、 こんな人にはくれぐれも、 なりたくもない、なりません。

こうした人の特徴や、 共通点というものは、 些細(ささい)なことや過ぎたこと、 どうにもならないことなどに、 責任感もないくせに、 こだわる心とさらに又、 自分本位に思い込み、 一方的に決めつける、 心を持っているのです。

一見、まともに見えるけど、 いやいやそうではありません。 心のアンテナ錆(さび)ついて、 状況判断するための、 視界も感度も不良品。

自分の世界の中でしか、 通用しない考えや、 論理に基づき生きている。 周りに対する気配りや、 心配りはまるでなし。

自分に関する問題は、 人に依存し丸投げて、 自ら解決する意志や、 責任感はありません。

ないない尽しのその中で、 プライドだけは人一倍、 持っているからたまらない。

自分の好みに合わないと、 一方的に拒否をして、 自分に都合が悪くなりゃ、 その場を逃げ出すことばかり。

そのくせ都合が良いとなりゃ、 見たくもない「面(つら)」出すのです。

どこで習ってきたのやら、 誰の教えか知らないが、 かわすことには才たけて、 自分が変わることがなく、 自分を変える意志もない。

「困った人」や「変な人」、 思いつくまま書いてるが、 これって誰でもいくつかは、 持っているかもしれません。

心当たりがある人は、 今すぐ、直ちに、速やかに、 直した方がいいみたい。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

悩む人は悩みを解決する「答え」を持っている。

悩む人は、悩みを解決する「答え」を持っている

「ああして、そうして、こうすれば、 悩みは解決するだろう」、  悩みを抱えている人は、 悩みを解決するための、 「答え」を自ら持っている。 

そう言われても「ウソだろう」、 「だったら、悩みはしないだろう」、 おそらく誰もがそのように、 思うだろうがそうじゃない。

悩みを抱えている人は、 自ら答えを持ちながら、 解決できずにいるのです。

解決できないその訳は、 「あの時ああしていたならば」、 「もしあのことがなかったら」、 「あんなことさえしなければ」、 過去の出来事、思い出し、 「あの時、あのこと、あの人が」と、 悔やむ気持ちがあるために、 自ら持ってる解決の、 「答え」を出せずにいるのです。

さらに加えて言うならば、 口では「何とかしなければ」、 「今のままではいけない」と、 言ってはいるが一方で、 「どうせ今さら手遅れだ」、 「何て自分はダメなの」と、 自ら否定し嫌悪する。

そのため気力を失って、 自信が持てずに鬱々(うつうつ)と、 悩み続けているのです。

確かに、悩みの解決を、 図るためには相当の、 心的パワーを要します。

時に、長期の「ひきこもり」、 「ニート」と言われる人たちは、「何とかしたい」というよりは、 「このまま何もしたくない」、 「やりたくない」という思い、 つまり、「心の目的」が、 「先」にあるため解決の、 「目先の一歩」を踏み出さず、 悩み続けているのです。

「解決しない」理由には、 「悩み疲れて」いるためか、 「解決しない」か「したくない」、 ふたつの思いがあるのです

いずれも悩みの解決を、 図るためには欠かせない、 「あるがままに受け入れる」、 その段階の二歩前で、 無意味な足踏みしています

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

人つき合いとはこんなもの。

人つき合いとはこんなもの。

いろんな人がいる中で、 他人の空似(そらに)と言われても、 「同一人」ではありません。

この世は「他人」の集まりで、 顔も容姿も違うように、 性格、気質に価値観や、 好みがそれぞれ違います。

そのため人との付き合いは、 伺い合って折り合って、 折り合えなければ「さよなら」と、 距離をとってもいいのです。

つまり、人との関係は、 「お互いさま」の関係で、つき合わなければなりません。

も少し詳しく言うならば、 自分の意見を言う時は、 命令したり押し付ける、 話をしてはいけません。 話の語尾には「どう思う、 如何でしょうか」伺いを、 立てる話をするのです。

話の結果が「そうだね」と、 相手が納得したならば、 互いに折り合い反対に、 相手が「そうは思わない」、 拒否の思いがある時は、 「お互いさま」と割り切って、 すっきりさっぱり別れましょう。

ところで、まじめな人間は、 「仲良しこよし」の関係が、 人つき合いの基本だと、 思い込んでいるために、 自分を犠牲にしてまでも、 人つき合いを完璧に、 取り結ぼうとするのです。

人つき合いで「生きにくさ」、 「関わりづらさ」を持つ人は、 こうした「つき合い」しています。

人つき合いの良い人は、 互いの「好み」を尊重し、 互いに分け合い喰っている。

人つき合いが下手な人。 相手の「好み」を喰いすぎて、 腹痛(はらいた)起こしている人か、 自分の「好み」を押しつけて、 ありがた迷惑かけてます。

人つき合いというものは、 「お互いさま」の感覚で、 互譲の精神仲人(なこうど)に、 関わることが大事です。

人とトラブル原因は、 相手の「課題」に配慮せず、 入り込むとか反対に、 自分の「課題」に同様に、 入り込まれることにより、 起こると言われているために、 着かず離れず干渉も、 無視もしないという距離を、 保たなければなりません。

生きてく上で避けられない、 人つ付き合いを円滑に、 保つためには唯一つ、 誰の課題かそのことを、 しっかり認識した上で、 関わらなければなりません。

ちなみに「課題」というものは、 誰が成すべきことなのか、 誰の問題なのかなど、 「課題の分離」ををした上で、  自分の課題の範囲内、 誠意を持ってつき合えば、 トラブルことはないでしょう。

さらに加えて言うならば、 人とのトラブル避けながら、 平穏無事(へいおんぶじ)に暮らすには、 例え意見が違っても、互いに尊重するという、 「お互いさま」の「緩衝帯(かんしょうたい)」、 是非とも備えて置きましょう。

そうか、なるほどそのとおり、 言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

人生は、「音声出力」控えめに

人生は、「音声出力」控え目に。

歌に映画にバラエティー、 今やテレビは生活に、 欠かせぬものとなりました。  テレビと言えば映像と、 音声ふたつが「コラボ」して、 見ている人に感動と、 満足与えているのです。

日々の暮らしで見てみると、 生活態度や行動は、 画面に写る「映像」で、 声や言葉は「音声」と、  例えることができるでしょう。

ところでテレビは映像と、 音声ふたつは欠かせぬが、 日々の暮らしに「音声」は、 あまり必要ありません。

「口先軽く、腰重い」、 言葉達者でヘラヘラと、 理屈、能書き言うけれど、 見合う行動しなければ、 「大ボラ吹き」になるだけで、 信用無くしていまいます。

有言実行できるなら、 それらにこしたことはない。 しかしそれらが無理ならば、 むしろ黙っていた方が、 はるかに信用得られます。

有言ばかりで不実行。 これじゃ救いの手立てなく、 いくら口先達者でも、 「おバカな人」と言われたら、 返す言葉はないだろう。

黙(もく)して語らずひたむきに、 やるべきことをやるという、 姿に人は好感と、 信頼感を持つのです。

言葉で言うのはたやすいが、 姿勢や態度や姿で示すのは、 容易なことではありません。

人生ならばなおのこと、 音声出力、控え目に、 映像出力、全開で、 生きてくことが大事です。

さらに加えて言うならば、 自慢話に言い訳や、 ハラスメントになるような、 罵声を浴びせる言葉など、 不快な音声出力は、 全く必要ありません。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

無駄なお金は使わない。

無駄なお金は使わない。

「あったらいい」のは無くていい、 無くてはならないものを買う。

ところが現代社会では、 あっても無くてもいいものが、 そこら中(じゅう)に溢(あふ)れてる。

現代人のおおよそは、 知恵はなくても財布には、 なまじお金があるために、 目につくものを欲しがって、 手当たり次第買いまくり、 使いもせずに放っておく。

中にはおバカな人もいて、 消費は美徳とおだてられ、 何を買ったか忘れ去り、 あちらこちらに散らかして、 平和ボケして暮らしてる。

ところでこれから話すのは、 中味はウソのようですが、 ホントにあった話です。

所は東京世田谷の、 高級住宅建ち並ぶ、 その一角にありました。 土地はおそらく?億円、 家はおそらく?千万、 坪に換算(かんさん)してみても、 相当額になるでしょう。

ところでそこのお家(うち)には、 冷蔵庫なる機器類は、 一台たりともありません。 理由を尋ねてみたところ、 徒歩三分の圏内に、 大型スーパーコンビニや、 商店街が目白押し。

冷蔵庫内に保存する、 必要性はないらしく、 その日のうちに使い切り、 明日は新たに買うという。

必要な時、欲しいもの、 近くでいつでも買えるから、 高価なお金を支払って、 冷蔵、冷凍するための、 機器は必要ないと言う。

話もここで終るなら、 無駄を省いて倹約を、 していることと思うかも。 ところがどっこいこの家主、 話はまだまだ続きます。 ここで終っちゃおりません。

普段、あるべき冷蔵庫、 そのスペースの坪単価、 換算すれば高額で、 わずかな食材、食べ物を、 保存するのに備えても、 無意味であって無駄と言う。

それよりほかの目的に、 有効活用した方が、 何より得だと言うのです。

そうか、なるほど、ごもっとも、 まったく恐れ入りました。

一般的な家庭でも、 ここまで徹底しなくても、 「文殊の知恵」を出してみりゃ、 「雀の涙」であろうとも、 少しは倹約できるかも。

収入、増やしていくことも、 無駄を省(はぶ)いて節約や、 倹約するということも、 その目的は同じです。

中にはこういう人もいる。 安売りスーパー探し当て、 得した気分でいるけれど、 仮に一○○円得しても、 車走らせガソリンが、 三〇〇円もかかったら、 一体どうなることでしょう。

「今」一世を風靡する、 テレビ通販ショッピング。  扱う品というものは、 「あったらいい」のもあるけれど、 「なくてもいい」がほとんどで、 「こんなものまで売るのか」と、 「驚き、桃ノ木、山椒の木」、 いやはや、関心しきりです。

「ちょっと待てよ」と間を置いて、 売り手の「餌食(えじき)」にならぬように、  冷静沈着、落ち着いて、 判断しないといけません。

言われるままに何もかも、 その気になって買っていりゃ、 「自前のお店」が持てるでしょう。

ところで人生、生きるには、 人付き合いが大事です。 金銭的な節約や、 「もの」に対する倹約は、  勿論、大事であるけれど、 人付き合いを避けるとか、  億劫(おっくう)がるなど付き合いを、 「節約、倹約」することは、  いかがなものか思います。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

気づき、気づくということは。

「気づき・気づく」ということは。

本来、人には「気を配り、 気になり、気にする、気をつける」、「心気(しんき)いわれる性質が、 外部のできごと情報に、 「触手」を伸ばしているような、 状態保っているのです。

その「気」に何かが触れた時、 「ハッと」感じる感覚が、 「気づき」「気づく」ということで、 生きるためには欠かせない、 「情報機関」のようなもの。

直感的に感じたり、 「閃(ひらめ)く」ことも同様に、 「気づき」によって生まれます。

ところで「気づく」ということは、 「なるほどなぁ」と心から、 納得、合点(がてん)がいくことで、 そこには悩みや戸惑いや、 不安や迷いはありません。

日々の暮らしで生きがいや、 幸せ感じる生活は、 生活行動全般に、 自ら納得しているか、 そうでないかで決まります。

ひとつひとつの行動に、 自ら納得していれば、 予期せぬことが起こっても、 きちんと対応するでしょう。

「気づく」ためにはこだわりや、 とらわれ感に思い込み、 決めつけ感を持たないで、 あるがままに受け入れる、 心がなければなりません。

さらに加えて言うならば、 「気になり、気にする、気をつける」、 「心気(しんき)」の「触手」を感度良く、 保たなければなりません。

「触手」を常に感度良く、 保つためには冷静な、 判断力にさらに又、 「触手」が好む好奇心、 興味や関心持つことが、 大事であると言われます。

ちなみに「気づき」というものは、 「気力」を生んでさらに又、 「行動力」高めます。

「気づき」→「気力」→「行動」は、 切っても切れない「仲」であり、 生きてく上で重要な、 「関係性」を持つのです。

情報社会の現代を、 難なく賢く生きるには、 いろんな情報ある中で、 自分に役立つ情報を、 「気づき」を持って正確に、 選択しないといけません。

のほほん気分でのんびりと、 平和ボケしていたならば、 「ババ」と掴んで泣きを見る、 哀れな人生送るでしょう。

五感を磨(みが)いて六感の、 感度を高めて生きてれば、 あらゆることに新鮮な、 「気づき」が得られることでしょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

「心の風邪」はひかないで。

心の風邪はひかないで。

「心の風邪」をひく人は、 「裸(はだか)」で街を歩いてる。

何も着ないで街中(まちなか)を、 裸で歩いていたならば、 法令違反で逮捕され、 厳しいお叱り受けるでしょう。

人間社会も同じこと。  社会の中ではたくさんの、 人が生活しています。  裸で生活する人は、 たまにいるかもしれないが、 社会を生きていく上で、 見合う「衣」を着けてます。

「あなた」一人が住んでいて、  自由気ままに生きられる、 場所はひとつもありません。 まずは「衣(ころも)」をつけなさい。

マナー、モラルに常識や、 道徳心や倫理感。 さらに加えて言うならば、 真面目、正直、素直さに、 謙虚の「衣」を着(つ)けたなら、 「心の風邪」に罹(かか)らずに、 きっと『あなた』は住む街で、 自分の居場所を持てるでしょう。

心の風邪」と言うものは、 あらゆる不幸を招き入れ、 人の一生ダメにする、 「疫病神」のようなもの

忌(い)み嫌われて村八分。 生きてる価値も実感も、 無い無い尽しの人生じゃ、 あまりに惨(みじ)めな話です。

かけがえのない人生を、 幸せ求めて生きるには、 「心の風邪」をひかぬように、 しっかり身支度(みじたく)するのです。

人間社会を健やかに、 生きるためには何ごとも、 社会が定める「形」とか、 「ルール」を守って生きること。

真面目、正直、素直さや、 謙虚な態度というものを、 「形」の衣とするならば、 常識マナーにモラルとか、 道徳心や倫理とは、 「ルール」の衣を言うのです。

ふたつの衣を着こなして、 真面目に生きているならば、 「心の風邪」をひくことは、 おそらくないと思います。

ちなみに風邪をこじらせて、 長患(ながわずら)いの生活を、 している人は速やかに、 社会の「衣」を身につけて、 生きて行くなら少しづつ、 「心の風邪」は快方に、 向かっていくと思います。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。