ひきこもりへの理解と対応。

ひきこもりへの理解と対応。

8050(はちまるごうまる)問題や、 7040(ななまるよんまる)問題で、 大きな社会問題に、 なって久しい「ひきこもり」。 全国的には相当な、 人が余儀なくされてます。

ひきこもる原因動機は、 人それぞれに違うけど、 苦悩が伴う生活を、 していることは確かです。

本来、人というものは、 「快」を求めて生きるとか、 「不快」を避けて生きるため、 「ひきこもる」という生活は、 「不快」を避けて生きるという、 確かな証しが立つのです。

「熊」を例えに言うならば、 フルシーズンの熊がいる、 現代社会と異なって、 昔の熊というものは、 厳しい冬が来る前に、 いわゆる「熊の穴籠り」、 穴に「こもって」いたのです。

その最大の理由とは、 冬の寒さや環境が、 熊にとっては相当に、 「不快」なものであるために、 回避や逃避の意味を込め、 不快な場所や場面から、 撤退、退避をしたのです

何を言わんとしているか、 察しがつくと思うけど、 現代社会で「ひきこもる」、 人と熊との違いとは、 熊はひとつの理由だが、 人は日常生活で、 いろんな苦悩を抱えます。

その苦悩から回避する、 方法として「ひきこもる」 選択をして自らの、 命を守っているのです。

「ひきこもる」という行為には、 身の安全を確保して、 命を守っていくという、 立派な根拠があるために、 恥ずべきことではないのです。

ところが「こもる」人たちの、 「こもった」あとの心情は、 熊と大きく違います。

不快を避けた熊たちは、 来る春までのんびりと、 安心しながら過ごします。

ところが「こもる」人たちは、 「何て自分はダメなの」と、 自分を否定し嫌悪する、 さらに加えて「生きてても、 価値などない」と自罰する

不快を避ける目的で、 回避したにもかかわらず、 こうした思いを新たにし、 苦悩が伴う生活を、 しているために社会では、 「ひきこもり」という人たちに、  悪い評価をするのです。 

「ひきこもる」という生活を、 改善、克服するために、 「社会復帰」を急がずに、 最も優先することは、 ストレス、逆境、困難に、 打ち克ち、乗り越え、へこたれない、 「折れない心」を身につけて、 「自己肯定観」を持ちながら、 自分らしく生きるという、 「人間復帰」を目指します。

現在、「こもっている人」へ、 心を込めて伝えたい‼ たった一度の人生を、 粗末にしてはいけません。

「ひきこもる」という生活の、 プラスの意味を見出せば、 きっと「あなた」の人生が、変わってくると信じます。 開き直っていきましょう‼ 

かく言う「やぶ」も、もと「ひきこもり」ってよ。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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不登校への理解と対応。

以前は「登校拒否」と呼び、 今では「不登校」一文字で、 括(くく)っているけど実態は、 人それぞれで違います。

文科省では「不登校」は、 学校内では「誰にでも、 起こり得る」と認めつつ、 不登校予防の対策や、 起きた場合の対応が、 うまく図れていないため、 年々、子どもの不登校は、 増加の一途を辿(たど)ってる。

不登校になる原因や、 キッカケである「誘因」は、 いろいろあるが長期化や、 深刻化を増す理由には、 「子ども目線」で考えず、 「大人目線」の対応を、 しているところにあるのです。

ところで子どもの不登校は、 次のふたつに分かれます。

ひとつは子どもが学校に、 「行きたいけれど行けない」のと、 「行けるが行かない」「行きたくない」、 ふたつのパターンに分かれます。

そのため不登校問題を、 解決しようとする時は、 「行けない」理由は何なのか、 「行かない」理由は何なのか、 勿論、原因知ることは、 大事なことであるけれど、 原因ばかりにこだわると、 誰が良いとか悪いとか、 「犯人探し」をしてみたり、 「あの時ああしていたなら」と、 無意味な後悔するだけで、 子どもの不登校問題の、 根本的な解決は、 できないものと心得る。

さらに加えて言うならば、 子どもも親も学校も、 「何とかしたい」と考えて、 いろいろ模索をしてるけど、 子どもがしたい「何とか」の、 意味や目的内容と、 親や学校考える、 「何とかしたい」の内容に、 大きな隔たりあるのです。

子どもがしたい「何とか」の、 意味、目的というものは、 つらい苦しい「生きにくい」、 そうした思いを払拭し、 「楽」な気持ちで過ごしたい、 ただそれだけのことである。

ところが親や学校が、 「何とかしたい」と思うのは、 言わずと知れた「学校」に、 「行って欲しい」や「行かせたい」、 ただそれだけの目的で「登校刺激」を続けます。

これじゃ子どもの不登校を、 解決しようと思っても、 解決どころか反対に、 「分かっちゃいない」と見透かされ、 見捨てられ感、置き去り感、 そうした思いを強くして、 子どもは離れていくでしょう。

現在、多くの不登校の、 子どもが抱く心情は、 自分の評価が低くなり、 「何て自分はダメなの」と、 自己否定に自責感、 自己嫌悪にさらに又、 「こんな自分は生きてても 価値などない」と自罰する、  そうした思いを持ってます。

ですから不登校問題の、 根本的は解決は、 「学校復帰」をするのでなく、 ストレス、逆境、困難に、 打ち克ち、乗り越え、へこたれない、 「折れない心」を身につけて、 「自己肯定観」を持ちながら、 人間らしく生きるという、 「人間復帰」を目指します。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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子育て教育、その意味は。

子どもを育てるその「意味」と、 子どもを育てる「育て方」「関わり方」というものが、 解らなければ子育ては、 容易なことではありません。大変苦労が要るものと、 覚悟をしなけりゃなりません。

子どもを育てるその「意味」は、 未熟で何もわからない、 子どもが社会を健やかに、 生きてくために必要な、「気力」「知力」に「体力」を、 養うことにあるのです。

中でも「気力」というものは、 車で言えば「エンジンの、 役目」を果たす大切な、 力であってストレスに、 打ち克ち逆境、困難を、 へこたれないで乗り越える、 「折れない心」の元になる、 「力」であると言えましょう。

も少し詳しく言うならば、 「折れない心」は自らを、 「かけがえのない存在」と、 思う「自尊の感情」と、 自分に対する「可能性」、 常に信じて期待する、 「自己効力感」にさらに又、 自分は役に立つという、 「有用感」を持つことで、 身につくものであるのです。 つまり、自信の元である、 自己肯定観を育てます。

いくら頭が利口でも、 飛び、跳ね、走るが得意でも、 「よわ気」で「やる気」がなかったら、 途中で「エンスト」するだけで、 人生、ムダ花「枯れすすき」、 その後の人生、うつうつと、 暮らしていくしかないのです。

現に世間にゃ「五月病」、 就労困難、出社拒否、 余儀なくされて不幸にも、 中途でリタイアする人の、 多さがすべてを語ります。

学生時代は16年‼、 その後は誰もが「社会人」、 すべての「子育て教育」の、 最終ゴールにあるものは、 子どもが元気で健やかに、 社会を生きていくための、 力を与えてやることで、 そのため親には適切な、 「関わり方」や「育て方」、 一生懸命、学ぶという、 義務と使命があるのです。

そういう意味で考えりゃ、 親子がともに学び合う、 時間が「子育て教育」の、 時間なんだとわかるはず。

「スマホ片手」の子育てや、 親の都合の善し悪しで、 「気分任せ」の子育ては、 子どもにとっては最大の、 不幸であると言えましょう。

世間りゃいろんな親がいて、 子どもが「子ども」を生むような、 未熟な親に育てられ、 育児放棄や虐待で、 生死の境で生きている、 子どももいれば反対に、 過保護に加え過干渉、 常に子どもを制約し、 身動きできない状況で、 苦しむ子どももいるのです。

子どもにとって恐ろしい、 親というのは言葉では、 常に「理解と愛情」の、 仮面をつけて、ぬけぬけと、 「あなたのためよ」と言いながら、 いつの間にやら、じわじわと、 自分の好みや価値観を、 一方的に押し付ける、 我欲が伴う「育て方」

さらに加えて言うならば、 「育ち」は良くても自らの、 「自分育て」が悪すぎて、 やんちゃをやってきた親の、 「気分任せ」の「育て方」。

いずれも、甲乙つけがたい、 子どもにとっては最悪の、 「育て方」だと言えるでしょう。

こうした家庭の子育てが、 三面記事に載るような、 事態にならないことだけを、 お祈りするしかありません。

本来、子育て教育は、 子どもの利益を中心に、 施すものであるために、子どもの行動全般を、「良い」とか「悪い」と決めつけず、 子どもにとって「損なのか」、 そてとも「得なことなのか」、 そうした視点で冷静に、 判断しなけりゃなりません。

「良い」「悪い」という判断は、 他人が決めるものであり、 「損か得か」の判断は、 子ども自身が解るもの。

さらに加えて言うならば、 子どもと会話をする時は、 「母は、○○、▽▽と、 思うがあなたは『どう思う』」と、 「伺う会話」を心掛け、 話の語尾に「どう思う?」、 一言、添えて終わります。

もしもその時、子どもから、 「自分はそうは思わない」、 期待外れの返事でも、 あるがままに受け入れて、 「そうか、なるほどわかったよ」、 その一言で終わります。

ちなみに、「伺う会話」には、「気づき」を促す意味があり、気づけば納得するために、 次に「やる気やその気」など、 「気力」が湧いてくるために、 「行動力」が生まれます。

「気づき」→「気力」→「行動」は、 切っても切れない仲良しの、 「三兄弟」であることを、 常に覚えておくのです。

子どもを納得させるため、 くどくど説得してみたり、 叱責するのは逆効果。仮に子どもが拒否しても、 親の思いは十分に、 届いているからご安心。

受容、共感、傾聴は、 「伺う会話」で生まれます。

「褒めて育てる」子育てや、 できないことを支援する、 「甘えさせる」子育てが、 推奨されるその訳は、 いずれも子どもの「肯定観」、 育むためのものである。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。