「善悪論を捨て損得論」で生きる。

善悪論を捨て、損得論で生きる。

一般社会の善悪の、 判断基準は適当で、 皆(みんな)が良ければ良いとなり、 皆が悪けりゃ悪くなる。

「永田町」の政治家の、 「お家芸」とも言えるべく、 数の論理で決めている。

一方、個人の善悪の、 判断基準は単純で、 好みに合えば良いとなり、 そうでなければ悪くなる。

しかしこうした基準では、 個々の都合で善悪が、 判断されてしまうため、 社会の秩序や良俗は、 機能を失い保たれず、 大いに混乱するでしょう。

そこで「お国」は国民に、 国家の力で善悪の、 判断基準を示すため、 法なるものを制定し、 強制的に善悪の、 判断基準を押しつける。

確かに法の定めには、 善と悪とが明記され、 すべての人は従うが、 何故(なにゆえ)それが善なのか、 どうしてこれが悪なのか、 法律上の善悪の、 根拠を理解する人は、 おそらくそんなにいないはず。

法律だからと鵜呑(うの)みにし、 「なるほどなぁ」と心から、 納得している国民が、 どれほどいるか疑問です。

例えば人を殺すのは、 悪いことだと法は言う。 確かにそれは正しいし、 誰もが法を守るでしょう。

ところで社会の善悪や、 法律上の善悪は、 所詮(しょせん)、「他人」がつくるもの。

それに対して損得は、 自分自身が納得し、 すぐに理解ができるもの。

さらに、加えて言うならば、 本来、人というものは、 得することはやるけれど、 損することはしたくない、 そうした欲求持ってます。

そのためすべての行動は、 善悪論に基づいて、 行動するというよりは、 損得論に基づいて、 人は動いていることを、 理解しないといけません。

ちなみにここでの「損・得」は、 物やお金に対しての、 損か得かのことでなく、 損というのは苦しくて、 つらい、悲しいことを言い、 得というのは快(こころよ)く、 楽であるとか穏やかな、 気分で暮らせることをいう、 感情面や感覚の、 次元の世界を言ってます。

日々の暮らしで事故もなく、 無事に暮らしていけるのは、 一人ひとりが法律を、 守って生きているからで、 そのこと自体に反論や、 異論はないが実際に、 法を守るということの、 「真意」は別にあるのです。

例えば人を殺したり、 物を盗(と)ったりしないのは、 法で定めた善悪の、 決まりの所為(せい)もあるけれど、 罪を犯せば罰として、 拘束されることによる、 苦痛が何より「損」だから、 人は「悪さ」や過ちを、 犯さぬようにするのです。

日々の暮らしで生きがいや、 やりがい感じている人は、 善悪論にこだわらず、 損か得かを見極めて、 自ら納得することを、 自信をもってやってます。

さらに加えて言うならば、 「善悪論」は「建て前」で、 「損得論」は「本音」です。

悩みを抱えている人は、 善悪論を優先し、 損得論をおろそかに、 生きる傾向あるために、 イライラしたり憂うつな、 思いや感情抱きます。

「建て前」論で生きてれば、 「不幸な人生」あるだけで、 何の「得」にもなりません。

「本音」と「建て前」仲良しの、 「自己一致」した 生き方に、 「納得人生」得られます。

いわゆる「良い子」と言う人は、 「本音」隠して「建て前」の、 仮面の演技をするために、 いつも疲れて生きにくい。

悩みを持たない生き方は、 「本音」と「建て前」仲良しの、 関係性から生まれます。

「自己一致」と言う言葉、 時々、耳にするけれど、 つまり、「本音」と「建て前」が、 一致している状態を、 言うのであって幸せな、 生きがいのある人生は、 「自己一致」した生き方が、 与えるものと心得る。

常に冷静沈着に、 善か悪かに惑わずに、 得か損かを考える、心に「ゆとり」を持ちましょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

「疑り深く執念深い」方がいい。

疑り深く、執念深い人がいい。

世間にゃいろんな人がいて、 中でも疑(うたぐ)り深い人、 執念深い人がいる。

疑り深くその上に、 執念深いとくるならば、 おそらく人はためらって、 その身を引いてしまうでしょう。

できれば付き合いなくしたい、 お友だちにはなりたくない、 正直、言えばそのような、 気持ちになるのも無理はない。

ところがどっこい然(さ)に非(あら)ず、 疑り深いというものと、 執念深いというものの、 「中味」を正しく知ったなら、 「鬼に金棒」人生を、 エネルギッシュに逞(たくま)しく、 生きる力が得られます。

人は誰でも過ちや、 しくじり、失敗、へまをして、 日頃、暮らしているけれど、 そうしたことをできるだけ、 なくしていくには適切な、 「判断力」とさらに又、 「分析力」と「持続力」、 三つの力を身につける、 必要性があるのです。

物ごとしっかり分析し、 正しく判断する時は、 疑り深さが必要で、 あるとないのじゃ天と地の。 差があることを知りましょう。

つむじ曲りと呼ばれても、 頑固者だと言われても、 常に冷静沈着に、 物ごと、とことん疑って、 深く掘り下げ考えて、 いろんな角度で見るという、 「疑り深さ」が必要です。

問題意識がない上に、 疑問を持たずにそのままに、 素直に受けていたならば、 分析力や洞察の、 精度は落ちてしまいます。

さらに加えて言うならば、 継続力や持続力、 常に保っていたいなら、 自分が納得するまでは、 決して途中で諦めず、 粘ってすがってしがみつく、 「執念深さ」が必要です。

人から顰蹙(ひんしゅく) 買うような、 疑り深さや執念は、 慎(つつし)まなければならないが、 分析力や持続力、 判断力を身につける、 ための「疑る、執着」は、 深いにこしたことはない。

ちなみに次の人たちに、 分析力や持続力、 判断力を求めても、 無理、無駄、無意味で難儀(なんぎ)かも。

洞察力に関しては、 世間で言われるノー天気。 何の疑問も抱かずに、 すぐに信用する人は、 他人が「こうだ」と言うことを、 鵜呑(うの)み、丸呑み断われない、 言われるままのお人好し。

争うごとを好まずに、 傷つくことを避けたがる、 平和ボケしている人や、 渡る世間に鬼はなし、 疑うことは「悪い」こと、 信じて生きている人の、 「疑り深さ」は 頼りない。

継続力に関しては、 「自分はダメ」と決めつける、 肯定感のない人や、 そのうち何とかなるだろと、 自分自身のことなのに、 主体性がない上に、 呑気(のんき)に構える「傍観者(ぼうかんしゃ)」。

さらに加えて言うならば、 「今更、どうにもならない」と、 始める前からできないと、 やる気なくして諦める、 こうした人を筆頭に  理由はどうあれ何であれ、 鳴かず飛ばずの人生を、 生きてる人が持っている、 「疑り深さ」や「執念の、 深さ」の程度は知れている。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

「独り善がり」をなくすには。

「独り善(よ)がり」をなくすには。

消費社会の現代は、 デパート、スーパーはじめとし、 商店街にはいろいろな、 欲しいと思う商品が、 所狭(ところせま)しと 溢(あふ)れてる。

中でも衣類や食べ物や、 日用品や雑貨など、 物の多さに買う人は、 心ときめくことでしょう。

そうしたなかで欲しいもの、 買いたいものが買えたなら、 確かにうれしいことですが、 しかし、買い物する時に、 頭に入れておくことは、 高価なものと品質は、 一致するとは限らない。

特に衣類や身につける、 装飾品というものは、 たとえ欲しくて買おうとも、 「似合うもの」とは限らない。

世間にゃいろんな人がいて、 センスがなくてちぐはぐな、 格好している人たちや、 奇抜(きばつ)な衣装と身につけて、 違和感与えている人の、 着ているものは買いたくて、 買ったものだと思うけど、 決して「似合って」おりません。

自分の好みや価値感は、 あくまで自分のものだけど、 周りの環境、状況に、 違和感与えぬふさわしい、 「衣装」と「着こなし」するのです。

場違い的な振る舞いや、 違和感与える行動は、 すべてそれらはその人の、 「独り善がり」の世界です。

独り善がりになる人は、 自分の世界の中でしか、 通用しない考えや、 論理に基づき生きている、 自分本位で我がままな、 やんちゃな「子ども」と同じです。

独り善がりの特徴は、 「我欲でものを考える」 クセがあるから常日頃、 周囲に対する気配りや、 心配りがないほかに、 無神経であるという、 リスクを抱えて生きてます。

同じ過ちする人や、 深く物ごと考えず、 短絡的な行動を、 する人たちのほとんどは、 「失敗しない」と始めから、 「高をくくって」いるために、 危機や危険に対しての、 心の準備がありません。

独り善がりの最大の、 悪いところはこのように、 危険や危機に対しての、 予測と備えをしないという、 愚かなところがあるのです。

社会は一人で生きられない、 「独り善がり」の生き方は、 自分はもとより他人まで、 不幸にさせる最悪の、 生き方なんだと心得る。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「気分は意志」で変えられる。

「気分」は「意志」で変えられる。

朝から晴れて すがすがしい。 失敗続きで 憂うつだ。

人は「感情動物」と、 言われるようにさまざまな、 思いや感情持ちながら、 一喜一憂繰り返し、 悲喜こもごもの生活を、 過ごし続けているのです。

ところであらゆることがらの、ひとつひとつにつきまとう、 喜怒哀楽の感情は、 「気分」であるためなくしたり、 存在自体を否定して、 生きてくことはできません。

楽しい時には ルンルンと、 「快の気分」に包まれて、 積極的になれるとか、 つらい時には憂うつな、 「不快な気分」で行動が、 停滞気味になるという、 変化の中で生きてます。

一般的に言うならば、 本来「気分」というものは、 自然にわき出る感情で、 コントロールができないと、 思いがちだがそうじゃない。

「気分」というのは物ごとや、 出来事すべてに対しての、 考え方や捉え方、 受けとめ方など「解釈」に、 よって生まれる感情で、 解釈次第でいくらでも、 「気分」は変わっていくのです。

プラス思考でポジティブに、 解釈すれば快い、 「気分」が生まれ反対に、 マイナス思考でネガティブに、 解釈すれば憂うつな、 「気分」が生まれてくるのです。

ですから「気分」を変えたけりゃ、 「意志」の力で解釈を、 変えれば良いというのです。

日々の暮らしや生活で、 「気分」は常につきまとう。 特に悩んでいる時は、 「気分」は落ち込み憂うつで、 苦しい時間が続くため、 「あの時ああしていたなら」と、 悔やみ続けているけれど、 悩みがなくなることははい。

それより悩みの内容を、 「意志」の力で冷静に、 深く考察してみると、 失敗したから悩むとか、 トラブル起きて悩むなど、 悩みが生まれる経過には、 「起こるべくして起こる」という、 当然、すなわち必然の、 結果であるのが解ります。

本来「悩み」というものは、 人に「苦しみ」与えたり、 不幸にさせるものでなく、 悩みの内容、本質を、 「意志」の力で考えりゃ、 今後の人生健やかに、 生きてくために自らの、 「生き方」すべてに対しての、 「反省点」や「改善点」、 教えてくれる大切な、 アドバイザーになるのです。

悩みに対する従来の、 ネガティブ思考の「解釈」が、 変われば「気分」も変わります。

「気分」は「意志」で変えられる、 理由はここにあるのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「落差」は魅力の元である

「落差」は魅力の元である。

 律儀(りちぎ)な人というものは、 常に真面目に正直に、 謙虚な態度を忘れずに、生きてる人がほとんどで、 誰から見ても好感が、 持てる人だと言えましょう。

しかし、こうした人たちは、 理想の人であるけれど、 余りに完璧、出来過ぎて、味わい深さや人として、 「魅力」があるかと考えりゃ、 物足りなさを感じます。

一般的に魅力とは、 人間性の問題や、 外見上の善し悪しで、 判断されているけれど、 ホントの「魅力」というものは、 それらに加えて「ハッ」とする、 「意外な面」があってこそ、 人の心を惹(ひ)きつける、 魅力が生まれる気がします。

普段、「真面目」で 通(とお)っている、 人がダジャレや 冗談(じょうだん)を、 言えば周りの人たちは、 思いもよらない出来事に、 きっと驚くことでしょう。

とかく魅力というものは、 「エッ!ウソー!マジ?」にさらに又、 「まさか・・」の思いが加って、 良いイメージが伝われば、 それが魅力になるのです。

意外なことや予期しない、 「まさか」と言うのは「落差(らくさ)」です。

良いイメージの「落差」とは、 魅力に繫がる重要な、 要因であると心得る。

華厳(けごん)の滝や白糸(しらいと)の、 滝も「落差」があるために、 眺(なが)める人を魅了(みりょう)する。

田んぼの水口(みなくち)掘割を、 チョロチョロ流れているような、 滝であったら人は皆、 誰も見向きはしないでしょう。

さらに加えて言うならば、 「能ある鷹(たか)は爪(つめ)隠す」 爪を隠してバカをやる。 そこに「落差」ができるから、 魅力が生まれてくるのです。

ちなみに中味が空っぽの、 「能なし鷹」が爪、出せば、 ただの「空(うつ)け」とさげすまれ、 きっとおそらく、確実に、 魅力どころか顰蹙(ひんしゅく)を、 買って終わりになるでしょう。

「バカ」が「おバカ」をやったなら、 「お生命取り」になるだけで、 決してやってはいけません。

も少し詳しく言うならば、 基本に「応用」あるように、 原則ならば「例外」に、 対応するとか「画一(かくいつ)」な、 ことに対する「多様性」、 すべて「落差」の元になる、 大事な要素であるのです。

「応用力」を身につけて、 例外的なことがらに、 適宜「対応できる」とか、 「多様な考え」持つことで、 魅力は自然に生まれます。

ところで「あなた」に「意外性」、 「魅力」と言われることがらが、 ひとつやふたつありますか。

魅力というのはこのように、 日々の暮らしや生活で、 「自分育て」を忘れずに、 努力を重ねていく中で、 自然に生まれてくるのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

                     無断転載、引用はお控え下さい。

「棚上げ」しないで落ちること

棚上げしないで「落ちる」こと。

レジャーランドや遊園地、 人気の高い乗り物は、 絶叫マシーンやコースター。

人気の秘密は何だろう。 遠路、はるばる出かけては、 行列つくって乗車待ち、 金まで払って得るものは、 瞬時に「落ちた」そのあとの、 全身漂う安らぎを、 人はお金で買っている。

さらに加えて言うならば、 緊張感から一瞬に、 解き放たれた安心感、 心和らぐ感情は、 瞬時であればあるほどに、 後味(あとあじ)を引く快感で、 何故だか人は好みます。

そういう意味で考えりゃ、 「落ちる」魅力というものは、 緊張感をなくしたり、 「安心感」を得るための、 手っ取り早い方法で、 大いに活用すべきです。

ところで「落ちる」と言うことは、 物の落下もそうですが、 「一件落着」するという、 そうした意味もあるのです。

下世話な話になりますが、 お堅い女性を好きになり、 口説き続けたその後で、 デートの約束取り付けた、 男の口から出る言葉、 「ようやく口説き落としたよ」。

さらに契約取り付けた、 セールスマンのひと言は、 「ようやく落ちたよ、あの客が」。

ちなみに「落ちる」と言う言葉、 日々の暮らしや生活の、 いろんな場面で使われる。

も少し詳しく言うならば、 「落ちる」意味とは物ごとが、 解決したというほかに、 高い場所から物体が、 低く安定する場所へ、 落ち着くことを意味します。

不安を抱えている人や、 不満を感じている人は、 「動かし難い現実」を、 あるがままに受け入れず、 イヤだ、参った、困ったと、 「我欲の棚」で身勝手な、 愚痴をこぼしているために、 心はいつも揺れ動き、 安定しない状態を、 余儀なくされているのです。

棚上げする場というものは、 「あのときああしていたならば」、 「こうしていれば良かった」と、 過去にこだわり、とらわれて、 後悔ばかりしてるとか、 自分の失敗、過ちを、 他人のせいにしてみたり、 人を頼ってあてにする、 自己中心の生き方を、 するには最も都合が良い、 居場所なのかもしれません。

不安や不満の葛藤を、 解決したいと思うなら、 こだわり、とらわれ、思い込み、 決めつけている「我」を捨てて、 無意味な「棚」から潔く、 「自分落とし」をしなければ、 解決策はありません。

ちなみに平家の「都(みやこ)落ち」、 源氏を恐れ京を去り、 「都落ち」したそのことで、 心の安堵を得たのです。

「落ちる」というのはこのように、 安らぐ場所に着けるから、 「落ち着く」ことになるのです。

常に人から愛されて、 好感持てる人たちは、 いつも心が落ち着いて、 ゆとりを持って生きている。

平穏無事に生きたけりゃ、 見栄やおごりや自慢など、 「虚勢の棚」でどっかりと、 胡坐(あぐら)をかいてる暇がありゃ、 今すぐ直ちに落ちましょう‼

そして心を改めて、 身の丈を知り、相応に、 真面目に生きて行くのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「折れない心」を身につける。

「折れない心」を身につける。

悩みが解決できなくて、 憂うつ気分でいる人や、 失敗、挫折で落ち込んで、 うだうだしている人は皆、 「心が折れて」いるのです。

「心が折れる」キッカケは、 ストレッサーと呼ばれてる、 人を悩ますさまざまな、 「外力」すなわちストレスで、 「心が歪む」ことにより、 心が折れてしまいます

そのストレスから身を守る、 耐久力や抵抗力、 反発力などストレスに、 負けない力というものが、 レジリエンスと言われてる、 「折れない心」を言うのです。

しかも「折れない心」とは、 タフで強くて強靭な、 心ではなく柔軟で、 しなやかさを持つ心です。

さらに加えて言うならば、 レジリエンスの考えは、 心が折れた状態を、 回復させるだけでなく、 心が折れない状況を、 維持する意味もあるのです。

日々の暮らしや生活で、 幸せ求めて生きるには、 「心が折れない生き方」を、 実践しなけりゃなりません。

実践するには物ごとや、 出来事すべてに対しての、 受け止め方や解釈が、 どうであるかが重要な、 「鍵」を握っているのです。

人生、生きるということは、 日々、さまざまな状況を、 あるがままに受け入れて、 足を止めずに生きること

そのためあらゆる出来事は、 「起こるべくして起こるもの」、 「成るべくして成った」という、 「当然観」で受け止めて、 解釈しなけりゃなりません。

さらに大事なポイントは、 自分も他人も「憂うつ」に、 ならない生き方するのです。

「憂うつ」感を持つことは、 「心が折れる」境界に、 立っているのと同じです。

悩みや心配、困りごと、 抱えているということは、 「憂うつ感」 を持ちながら、 生きていると同じです。

トラブル起こして悩むのも、 病気で体調、崩すのも、 企業が倒産することも、 そこで関わる人たちを、 いずれの場合も「憂うつ」な、 気分にさせていまいます

そのため日頃の生活で、 体調管理に努めたり、 企業が経営合理化を、 図る理由の背景に、 病気を未然に防いだり、 企業が倒産、避けるなど、 レジリエンスの考えが、 広く反映されてます。

さらに加えて言うならば、 「折れない心」を身につけて、 「心が折れない生き方」を、 実践するにはそのほかに、 6つの課題の習得に、 努めなければなりません。

ひとつは「冷静沈着」な、 思考に基づく「冷静さ」

さらにあらゆる場面では、 種々、選択肢を用意して、 多彩な判断できるという、「経路思考」の「柔軟性」。

そして物ごと出来事を 悲観的に考えず、 ポジティブ思考で前向きに、 「なんとかなるさ」と考える、 「楽観思考」も大事です。

加えて人との関係を、 円満、なおかつ円滑に、 取り結ぶのに欠かせない、 対人スキルを身につけて、 「人間力」を高めます。

さらに自分の問題は、 自分で解決するという、 「問題解決」する力、 そして自信の元である、 「自己肯定観」を養えば、 ストレス・逆境・困難に、 打ち克ち、乗り越え、へこたれない、 「折れない心」を身につけて、 日々、健やかに暮らせます。

「折れない心」を身につける、 ための六つのポイントを、 「やぶのつぶやきひとりごと」で、 ①から⑥の内容で、 詳しく投稿されてます。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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⑥「自信力」を身につける。

⑥「自信力」自己肯定観」を身につける。

自信があるのとないのでは、 あらゆる生活行動に、 大きな影響与えます。

自信を持てと人は言う、 確かに自信は大事です。 何故なら自信というものは、 生きる力」を支えてる、 エネルギーのようなもの。

おっかなびっくり生きるより、 自信溢(あふ)れる振る舞いは、 まわりの人を元気にし、 明るい雰囲気もたらして、 気分を良くしてくれるでしょう。

ところで、「自信」というものは、 ふたつの自信に分かれます。

ひとつは体力・学力や、 免許・資格に地位・名誉、 人より優れた能力を、 身につけ自信を持つという、 「能力の自信」にもうひとつ、 自分が存在することに、 対する自信があるのです。

「能力」および「存在」の、 どちらの自信も大事だが、 中でも大事な自信とは、 自分が存在することに、 対する自信と言われます。

ところでよくよく考えりゃ、 ふたつの自信がある中で、 「能力」による自信には、 「確実性」や「絶対性」、 残念ながらありません。

仮に相手の能力が、 自分の能力以上なら、 もろく崩れてしまうという、 リスクが伴う自信です。

スポーツ競技に関わらず、 「勝負ごと」には勝ち負けが、 つきものだから能力が、 あるかないかで決まります。

仮に能力高ければ、 相手に勝利し喜びを、 味わうことができますが、 負ければ気分が落ち込んで、 自信をなくしてしまいます。

ところがどっこい「存在の、 自信」というのは格別な、 「ガッツ」を秘めているのです。

負けても「なにくそ今度こそ」、 「必ず、勝つ‼」と奮起(ふんき)する、 「ガッツ」なパワーを持ってます。

そうしたパワーの中味には、 「自己肯定観」と言われてる、 「自尊感情、効力感、 自己有用感」の三つから、 生まれる「思い」があるのです。

も少し詳しく言うならば、 「自分は捨てたものじゃない」、 「かけがえのない存在」と、 自分を尊(とうと)ぶ「自己愛」に、 基づく「自尊感情」や、 「きっと、おそらく、大丈夫」、 「やればできる」と期待する、 「自己効力感」にさらに又、 「自分は役に立っている」、 「無用な人ではない」という、 「有用感」を持つことで、 自信の根っこを支えてる、 「肯定観」が生まれます。

「自己肯定観」の「自信」とは、 ストレス、逆境、困難に、 打ち克ち、乗り越え、へこたれない、 「折れない心」の根幹を、 しっかり支えているのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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⑤「問題解決力」を持つ。

⑤「問題解決力」を身につける。

日々の暮らしや生活で、 何ごともなく穏やかに、 平穏無事に暮らしてる、 人は一人もおりません。

人生、生きてる間には、 大なり小なりさまざまな、 悩みを抱えて生きてます。

ところで、悩みを速やかに、 解決できる人もいりゃ、 悩みが解決できなくて、 日々憂うつな生活を、 続ける人もいるのです。

ところで両者の間には、 どんな違いがあるのでしょう。

悩みを解決する時は、 三つの「自覚」が必要で、 悩みは自分の問題で、 「解決するのは自分」だと、 当事者意識を持つことや、 悩みの本質知ることで、 問題点を分析し、 解決法を考える、 問題意識を持ちながら、 必ず解決するという、 解決意欲を持つのです。

ところで三つの「意識」とは、 悩みの解決のみならず、 生きるためには欠かせない、 「意識」であると言えましょう。

ところが悩みの解決が、 できずに苦悩する人は、 こうした自覚はありません。

あるのは「セルフサービング、  バイアス」という偏(かたよ)った、 思いを抱いているのです。

その場しのぎの言い訳や、  自分に都合が良いように、 勝手に論理をすり替えて、  悩みのホントの原因と、 真正面から向き合わず、 「逃げてかわして避ける」ため、 解決どころかさらに又、  苦悩を続けているのです。

さらに加えて言うならば、 失敗したり過ちを、 犯した時の言い訳や、 理由を事前に用意して、 自分のミスを隠したり、 傷つくことを予防する、 「セルフハンディキャッピング」。

いずれも事実と向き合わず、 その場しのぎをするための、 歪(ゆが)んだ思いに基づいて、 「嘘つき人生」重ねます。

「認知の歪み」と一言で、 片づけるのはたやすいが、 こうした思いで生きたなら、 まともな人生送れない。

当事者意識とさらに又、 問題意識持ちながら、 解決意欲を高めれば、 起こるであろうさまざまな、 自分に関わる「問題の、 解決力」が生まれます。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

④「人間力」を身につける。

④「人間力・人間関係力」を身につける。 

他人の空似(そらに)と言われても、 人はそれぞれ別人で、 同じ人ではありません。

世間は「他人」の集まりで、 いろんな人がいる中で、 特にまじめな人間は、 自分を犠牲にしてまでも、 人つき合いを完璧に、 取り結ぼうとするために、 いつも苦しく生きにくい。

「仲良し、こよし」になることが、人付き合いだと思う人、 いずれ人との付き合いで、 「関わりづらさ」を感じつつ、 自ら苦悩を招きます。

ところで人生、生きるには、 人を避けては生きられない。 「人間」という字のように、 「人」の「間(あいだ)」で生きるもの。

そのため、人との関わりや、 人付き合いというものは、 生きてく上で重要な、 テーマであると言いましょう。

人付き合いの「善し悪し」が、 かけがえのない人生の、 「幸、不幸」を決めている、 大きな要素になってます。

人つき合いの良い人は、 相手の「好み」を尊重し、 互いに分け合い食べている。

中には奇特(きとく)な人がいて、 相手の「好み」を喰いすぎて、 腹痛(はらいた)起こしている人や、 自分の「好み」を押しつけて、 顰蹙(ひんしゅく)買われる人もいる。

互いに「好み」を言う時は、 「いかがでしょうか」と伺って、 「好み」に合えば折り合って、 会わない時は遠慮せず、 断ることが大事です。

百人百様、世間には、 いろんな人がいるわけで、 いつも合うとは限らない。合わなくたっていいじゃない。

「人つき合い」をすることに、 むやみに緊張してみたり、 戸惑う人がいるけれど、 人つき合いの基本とは、 伺い合って折り合って、 折り合わなければ無理をせず、 「お互いさま」と別れましょう。

生きてく上で避けられぬ、 人つき合いであればこそ、 「お互いさま」と割り切れる、 心は大事な必需品。

「お互いさま」の心とは、 互いの立場を認め合い、 無用な争い避けながら、 平穏無事でいるための、 「緩衝帯」の意味を持つ、 大事な言葉であるのです。

さらに加えて言うならば、 「課題の分離」が大切で、 「誰がやるべきこと」なのか、 自分」か「相手」か考えて、 「相手」の課題に入らない。

人と人とのトラブルは、 「互い」の「課題」に入り込み、 入り込まれて起こるもの。

「馬を水辺(みずべ)に連れて行く、 ことはできるが馬に水、 飲ませることはできない」と、 諺(ことわざ)にあるその意味は、 水を飲むのか飲まないか、 馬主が決めることでなく、 馬の「気持ち」が決めるもの。

「せっかく連れて来たのに」と、 無理やり水を飲まそうと、 無理強(むりじ)いすればどうなるか、 馬に蹴(け)られてケガをする、 不幸な結果を招きます。

人付き合いも同様に、 互いの課題を尊重し、 「付き足りなく」も「付き過ぎず」 指先同士が触れるような、 程よい位置を保ちます。

過度な説得、慰めや、 激励、叱責することも、 相手の課題に入り込み、 トラブル起こす元になる。

さらに生きてる間には、 突発的な出来事や、 予期せぬことに遭遇(そうぐう)し、 自分で解決することが、 できない時があるはずで、 そうした時は無理をせず、 「助けを求める」ことも又、 大事なことと心得る。

人に「助け」を乞(こ)うという、 「援助希求(えんじょききゅう) 能力」を、  持てない人の心には、 責任感が強いとか、 「断られたらどうしょう」、 「助けを乞(こ)うのは恥ずべき」と、 人に助けを求めたり、 援助を期待することに、 戸惑う思いを持ってます。

「援助希求能力」は、 危険な状況回避(かいひ)して、 危機を乗り切るクライシス、 マネジメントの意味を持つ、 生きるためには不可欠な、 「人間力」のひとつです。

常に、人との関係を、 持つ人生を幸せに、 暮らしていくにはこのような、 「関わり方」を身につける、 ことが大事と言われます。

さらに加えて言うならば、 会社、学校そのほかの、 人が集まる所では、 勝ち負け競う場所でなく、 仲間を増やす場所という、 考え方を持つのです。

さらに信頼する人や、 愛する人や憧れる、 人を持つのも大事です。

人は一人で生きられない、 人と関わり合うことで、 人間力を高めます。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。