判断、決断、実行力。

たばこの火さえ消せないで、 火事など消せるわけがない。

大口叩(たた)いて見栄(みえ)張って、 風呂敷広げてみたところ、 中味に何もなかったら、 どうしてくれよう「思案橋」。

塵(ちり)も積れば山となる。 小さなことをきっちりと、 基本どおりにやらなけりゃ、 大きなことはできません。

だからと言ってやみくもに、 やれば良いとは言わないが、 何かを始める場合には、 どうして自分がこのことを、 やろうとしてるか行動の、 「動機」をしっかり自覚する。

動機がはっきりしなければ、 いくら情報集めても、 何を選択するべきか、 判断したり決断を、 すること自体、できません。

「仏像、創って魂(たましい)を、 入れず」の言葉があるように、 目的イコール動機にも、 「志(こころざし)」となる信念が、 なければ途中で挫折する、 羽目になるのが「オチ」みたい。

中にはいろんな人がいて、 判断できても決断が、 できない人も困るけど、 計画立てても実行に、 移せぬ人も困ります。

判断できても決断が、 できなきゃ前に進めない。 計画立てても実行に、 移さなければ意味がない。

どちらも大事なテーマだが、 決断するということは、 他人に委(ゆだ)ねることじゃなく、自分の意志でするのです。

ちなみに判断決断が、 できない時の背景に、 何があるかと言うならば、 そもそも判断、決断の、 「力」がないというほかに、 「迷う」心やさまざまに、 「戸惑う」気持ちがあるのです。

人が迷うということは、 あるものごとに対しての、 考え方や捉え方、 感じ方など感覚が、 微妙に均衡(きんこう)してるため、 選択できずにいるという、 戸惑う「様(さま)」を言ってます。

要は「迷い」があるのです。

シーソーゲームに例えれば、 「瘦(や)せ」と「デブ」とが乗ってれば、 迷うことなく重いのは、 「デブ」と判断できるでしょう。

ところが均衡していれば、 どちらが軽く、重いのか、 大いに迷い、判断や、 決断力が鈍(にぶ)ります。

日々の暮らしや生活で、 こうした迷いがある時は、 逡巡(しゅんじゅん)しないで速やかに、 どちらかひとつを選びます。

但し、注意をしなければ、 ならない点がひとつある。

均衡してるということは、 五十一対四十九、 こうした状況、言う訳で、 百対〇(ゼロ)と言うように、 一方的ではありません。

正誤の例えで言うならば、 その時、選択したものは、 どちらも半分正しけりゃ、 どちらも半分誤りと、 考えなければなりません。

つまり、どちらを選んでも、 決定的な正解や、 確定的な誤りが、 ない状態と言えるでしょう。

ピンチはチャンスと言うように、 あらゆる物ごと出来事は、 プラスマイナス両方の、 価値感情があるという、 いわゆる「感情両価性」、 両面観で捉えなきゃ、 思考の偏り生まれます。

両面観に基(もと)づいて、 判断、決断するならば、 正しい選択できるはず。

判断するには正確に、 決断するには速やかに、 実行するには確実に

判断、決断、実行の、 三つの力がスムーズに、 連携すれば良いのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

人生で最も「怖い」ものは何?

人生で最も怖いものは何?

この世で生きてる人は皆、 いらんな人とめぐり合い、 関わり合って生きてるが、 人と関わるその中で、 最も怖いことがある。

怖い「答え」というものは、 嫉妬されたり中傷や、 叱責されることじゃない。すべてのことを「無視」されて、 唯一「沈黙」されること

嫉妬、中傷、叱責は、 不本意ながらも関心や、 興味が自分に向いていて、 「相手の視線」の中にいる。

ところが「無視」や「沈黙」は、 不本意どころか完全に、 相手の視線や視界には、 自分は入っておりません。

人は誰でもお互いの、 視線や視界の中にいて、 はじめて安心するのです。

人と付き合うことになりゃ、 「仲良しこよし」の時ばかり、 続くものではありません。

トラブル、喧嘩はつきもので、 いろんなことがありますが、 それでも相手の視界には、 ちゃんと自分が入ってます。

人が生きるということは、 日々の暮らしや生活で、 人と出会って語り合い、 ふれ合いながら認め合い、 互いに支え合いながら、 困った時は助け合う。

あてにされたりあてにする、 そうした相互の関係が、 あってはじめて生きられる。

ちなみに人に無視されて、 空しい思いでいる人は、 この世に生まれた当初から、 無視され続けてきた訳じゃ、 おそらくないと思います。

人は本来、相手には、 望みをかけて期待する、 やさしい心を持ってます。

無視というのは存在や、 価値を認めぬことだから、 おそらくきっと「その人」は、 そうした期待を裏切って、 棒にも箸にもかからない、 「やんちゃ」をやってきたのでしょう。 だから相手の視界から、 「消された」ことと思います。

そうした人を世間では、 「金魚バカ」とか申します。 「金魚バカ」とはどのように、 しても「救えぬバカ」を言う。

日々の暮らしや生活で、 まじめ、正直、素直さに、 謙虚な気持ちで生きてれば、 「無視」もされずに「沈黙」も、 されるどこらか反対に、 広く世間に愛されて、 頼りにされることでしょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「まさか」という名の「さか」はない。

「まさか」という名の「坂」はない。

苦労七坂 七曲り。 人生、生きてる間には、 イヤイヤながらも乗り越える、好まぬ坂は多々あるが、 「まさか」という名の「坂」だけは、 できれば避けて通りたい。

「まさか」の「さか」というものは、 思いもよらぬ出来事や、 予測できないことがらに、 遭遇した時出合う「さか」。

地震、雷、火事、水害、 自然災害のみならず、 日々の暮らしや生活で、 「まさか」の「さか」というものは、 予期せぬ時に現れて、 試練を与える「さか」である。

「まさか」の「さか」というものは、 解釈次第でプラスにも、 マイナスにもなる「さか」だから、 「さか」の中味を確かめて、 有効活用するように、 努めなければなりません。

どういう意味かと言うならば、 日常起こるさまざまな、 突発的な出来事も、 自然界での出来事も、 人智の及ばぬだけのこと、 地球規模で考えりゃ、 すべての物ごと出来事は、「起こるべくして起こるもの」、 「成るべくして成る」という、 「必然的、かつ当然」の、 結果であると言えましょう。

「当然観」で捉えれば、 「まさか、一体どうして」と、 野暮な言葉は吐かずとも、 すべてに「こんなわけだった」 「こんなはず」だと解ります。

「まさかこんなになるなんて」、 思いもよらぬ出来事や、 意外な結果に驚いて、 戸惑う人の心には、 「偶然」という観念で、 捉える心があるのです。

偶然というその意味は、 思いもよらぬ「よもや」ごと、 だから「まさか」になるのです。

すべての物ごと出来事は、 「起こるべくして起こる」という、 「当然観」を持つ人に、 いろんな「さか」があろうとも、 「まさか」という名の「坂」はない・・・ってよ。

「まさか」の「さか」に出会っても、 冷静沈着、落ち着いて、 あるがままに受け入れて、 「自分は決してめげない」と、 自信を持って向き合えば、 多少時間がかかっても、 心が折れることはなく、 「きっと、絶対、確実に」、 「さか」を登って行けるでしょう。

「まさか」の「さか」を登るには、 当然観の「金剛杖」、 しっかり突いて登ること‼

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

心の病にかかる人。

心の病にかかる人。

常にまじめで几帳面。 完全、完璧心気的、 気になりだしたら 止まらない。

100点取るか0点か、 全てか無かの両極端。 愚痴(ぐち)や弱音は吐きにくく、 我慢、引っ込み、断れない。

不安、緊張、敏感で、 プライド高く、根は頑固。  「もしかしたら・・」が「そうである」、こだわり強く思い込む、  すべき」「あるべき」「ねばならない」、 思考はいつもワンパターン。

自分の評価が低すぎて、 否定と自責をくり返す。 人は「いい子(人)」と言うけれど、 本音隠して建前の、 仮面の演技に疲れ切る。 いつも憂うつ生きにくい、 心の病にかかる人。

人も羨(うらや)む性格も、 使い勝手が下手ならば、 自分を悩ます種になる。「三つ子の魂(たましい) 百までも」、 「持った性分死ぬまで」と 性格、気質は変わらぬが、 「馬鹿とハサミは 使いよう」、 日々の暮らしや生活で、上手に使いこなせれば、 自分を生かす糧(かて)になる。

ところで強迫神経症、 こうあるべきにこうすべき、 「べき」にこだわり続けます。

手洗い、歯磨き入浴や、 鍵閉め、戸締り火の始末、 何度も何度も確かめる。 トイレの場所が気になって、 各駅毎に下車をする。

そのほか物が捨てられず、 貯め込み集めることもある。

「べき」に根拠がないことや、 無意味とわかっていながらも、 こだわり続けていなければ、 心が不安でたまらない。  こだわり続けたそのあとは、 「何て自分はダメなの」と 自ら否定し嫌悪する。

さらに自分を卑下したり、 自責の念に駆(か)られたり、「こんな自分は生きてても、 価値などない」と自罰する。

さらに加えて言うならば、 対人不安や恐怖症。 特に美人じゃないけれど、 自分の容姿が醜(みにく)いと、 「醜態(しゅうたい)恐怖」を抱いたり、 人の視線が気になって、 不安なあまり動けない。

さらに加えて言うならば、 高い所や狭い場所、 鋭く尖(とが)ったものなどに、 極度の恐怖を抱くという、 いわゆる不安恐怖症。

心の病の人たちに、 共通している特徴は、 不安でないのに不安がり、 怖くもないの 怖いと言う「認知にゆがみ」が あるのです。

ゆがみをなくす方法は、 逆らわないでさらけだす、 「認知行動療法」の、 「曝露(ばくろ)療法」効果的。

たとえ不安や恐怖でも、 あるがままに受け入れて、 慣れて馴染んでいくうちに、 ゆがみは自然に治るもの。 不安や恐怖があるからと、 何もしないでいることが、 一番悪いことである。

不安や恐怖があるからと、 何もしないでいたならば、 自然増殖繰り返す、 厄介者であるゆえに、 仮に不安や恐怖でも、 あるがままに受け入れて、 やるべきことをやるのです。

「安心しなさい大丈夫」。 不安や恐怖で死んだ人、 知る限りではおりません。

心の病という「奴」は、 心にホントの原因が、 あって発症しますから、 ものの見方や捉え方、 考え方を 変えなけりゃ、 一時的には治っても、 とどのつまりは再発を、 くり返してはその度に、 重度を増していくのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「ゆとりとゆるみ」は紙一重。

「ゆとり」、「ゆとり」と 人は言う。 「ゆとり」を持って 生きろと言う。

確かに「ゆとり」は必要で、 心と身体の健康を、 保つためには欠かせない、 「栄養源」と言えましょう。

しかし、「ゆとり」の解釈を、 自分の都合で変えたなら、 「ゆるみ」「たるみ」の元になる。

山あり谷ある人生の、 あらゆる場面で速やかに、 無理なく、無駄なく、適切に、 適応するには、何よりも、 「ゆとり」がなければなりません。

一般的にいうならば、 不平不満がある時や、 不安、緊張、焦りなど、 心が動揺する時に、 「ゆとり」をなくしてしまいます。

さらに加えて言うならば、 自分の世界の中でしか、 通用しない考えに、 こだわり続けてとらわれて、 思い込んでは決めつける、 そうした思いでいる時も、 心に「ゆとり」は持てません。

心の「ゆとり」というものは、 常に、冷静 沈着に、 楽観的かつ柔軟な、 思考で物ごと考える、 ところに生まれてくるのです。

「ゆとり」があるということは、 あらゆる場面や状況に、 適宜、対応できるため、 平和に暮らして行けるでしょう。

「ゆとり」というのはストレスの、 心的圧力、和らげる、 「緩衝帯」である上に、 逆境、困難乗り越える、 力を補充するための、 「安全地帯」であるのです。

「ゆとり」の意味を履き違え、 「ゆるみ、たるみ」にならぬよう、 「ゆとり」の糸をピンと張り、 正しく機能するために、 常に点検、調整を、 怠ることのないように。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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奉仕と利益の関係は。

「奉仕」の先の「利益」とは、 どんな「利益」があるのだろう。

玉子が先か鶏の、 どちらが先かは知らないが、 多くの人に支えられ、 繫盛している店を持つ、 商売人というものは、 「利益」は後でその前に、 「奉仕」が先と考える。

中には「利益」を優先し、 儲かることだけ考えて、「奉仕」いわゆるサービスは、 もってのほかと考える、 商売人も見かけるが、 そうした店というものは、 客はまばらで閑散と、 閑古鳥だけ飛んでいる。

「奉仕→利益」と捉えるか、 「利益→奉仕」と捉えるか、 後先(あとさき)違いの話だが、 「奉仕」を優先することで、 後で「利益」を得るという、 考え方が大事です。

も少し、詳しく言うならば、 奉仕を先に行えば、 利益は計算しなくても、  自ずと後からついてくる。

「奉仕→利益」 の考えは、 人が生きるということの、 基本であると心得る。

生きる基本は「奉仕」です。 親が子どもを大切に、育てることも奉仕なら、 農家の人が新鮮な、 農作物を作るのも、 使い勝手の良いものを、 昼夜を問わず考えて、 生産している人たちも、 すべては世のため、人のため、 「奉仕」の心に支えられ、 「奉仕」を実践するために、 努力を重ねているのです。

ところで、人からあてにされ、 頼りにされて応えたり、 困った人がいたならば、 力を貸してあげるのも、 「奉仕」であってそのことで、 「役立つ自分」の存在が、 実感できるわけだから、 正に人生、最高の、 「利益」を得たと言えるでしょう。

「自己有用感」というものは、 「奉仕」を続けるその中で、自分は「役立つ存在」と、 感謝や称賛される時、 はじめて感じるものである。

さらに加えて言うならば、 自分を尊ぶ感情や、 常に自分に期待する、 「効力感」が持てるなら、 自信につながる「肯定観」、 望まなくても得られます。

「生きがい」「やりがい」「幸せ」は、 「自分が存在してる」という、実感なければ叶わない。

ちなみに人が行き来する、 場所を表す「出入口」、 その名の由来は知らないが、 はじめに「出す」から「入る」という、 そう言う意味があるみたい。

言葉遊びじゃないけれど、 鳴かず飛ばず人たちが、 入って出すのが「入出口」、 我欲の強い人たちが、 とにかく好む「入入口」、 心も財布もしなびれた、 貧乏人の「出出口」の、 三つの「口」は絶対に、通りたくない「口」である。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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座禅の「禪」というものは。

☆座禅の「禅」というものは。

座禅の禅(禪)という文字は、 「」を「示す」と書くように、単純、なおかつ簡単な、 行動続ける大事さを、 座禅を通して教えます。

日々の暮らしで単純に、 くり返している行動は、吸って吐いてはまた吸って、 死ぬまで「続ける」呼吸です。

呼吸が止まればどうなるか、 すべての人は死ぬでしょう。

そういう意味で考えりゃ、 日々の暮らしや生活で、「続ける」ことの大事さを、 呼吸は教えているのです。

さらに加えて言うならば、 起床、飲食、排泄(はいせつ)や、睡眠という基本的、 生活リズムが崩れたら、仕事をしようが遊ぼうが、 何もしないでいようとも、すべての生活成り立たず、 生きてくことはできません。

ところで禅の高僧は、 座禅を通してもう既に、「無我の境地」や「無」の世界、 すべてを極めているはずと、我々、世間の凡人は、 思っているけど現実は、決してそうではありません。

代々続く禅寺で、 禅の修行を積む僧は、「悩み」の元の煩悩(ぼんのう)が、 存在しない「無の世界」、「無我の境地」を悟(さと)るため、 厳しい修行をしてるけど、悟るというのは困難で、 無理だと解っているみたい。

それでも決して諦めず、 修行を続けるその訳は、無理であろうと困難な、 場面であっても耐えながら、目的達成するために、 「努力」を重ねる姿こそ、 禅の教えであることを、 知っているから一心に、 厳しい修行を続けます。

継続するは力なり」。 禅の教えというものは、例えどんなにつらくても、 あるがままに受け入れて、幸せ求めていくための、 「努力」を続けていくことが、「人が生きる」ということの、 基本であると教えます。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

人生は「足し算」の連続‼

人生の時間というのは、「足し算」の連続なんだと心得る。

人生は「百人百様」それぞれに、 「足して引いたり、掛けたり割って」生きている。

しかし、まともな人生は、 まじめ、正直、素直さに、謙虚さ忘れずひたむきに、 「目先の一歩」の行動を、「足して」行かなきゃ、 なりません。

プラス思考が良いからと、 プラスの「足し算」重ねると、マンネリ思考に陥って、 危機や危険に気づかずに、いつか「墓穴」を掘るでしょう。

しかし、悩んでいる時は、 「たら、れば」思考に支配され、「ああしていれば、こうしたら」、 「こんなはずではなかった」と、過去の時間を「引く」ような、 後悔、愚痴を繰り返し、 消極的な生活を、余儀なくされているだけに、 状況変えていくために、行動起こす「足し算」の、 考え方を身につけて、日々の暮らしや生活を、 変えていくしかありません。

料理を味付けする際に、 甘さ辛さを変えたけりゃ、 水や砂糖を足すように、 変えるためには「足す」以外、 方法手段はないのです。

「足してもダメなら、足すものを、 変えて、も一度、足してみな!」「それでもダメなら、また足しな‼」・・・ってか。

足さない限り状況は、 いつまでたっても変わらない。

「行動」起こす「足し算」の 重ね着、上書きする中に輝く未来があるのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

やぶのつぶやき決定版‼人が悩むということは。

人が「悩む」ということは、 「あの時ああしていたならば」、「こんなわけではなかった」と、 愚痴を吐いたり、悔恨の、思いにこだわり、とらわれる。

さらに加えて言うならば、 「この状態が続いたら」、「この先、一体どうなるの」、 不安な思いが湧き上がり、「きっと、おそらくそうなる」と、 自分勝手に思い込み、一方的に決めつける。

悩みを抱えている人の、 共通パターンというものは、「不満」な思いや感情に、 こだわり続けてとらわれて、「不安」な思いや感情を、 「もしかしたらそうなる」と、思い込んでは決めつける。

悩みを抱えている時は、 常に気分は憂うつで、起きる時間に起きられず、 食べる時間に食べられず、やるべきことができなくて、 日々の生活行動が、 停滞、後退するのです。

子どもであれば不登校や、 大人は就労困難に、陥り解雇をされるとか、 子どもは退学処分など、新たな悩みが加わって、 苦しむことになるのです。

そして最後は「無気力」や、 極度の精神不安から、「医療の援助」を受けるとか、 「反社会的行動」を、余儀なくされてしまうなど、 三つのリスクを負いながら、生きて行くしかありません。

ならば、「悩み」を速やかに、 解決していく方法を、「悩み」と向き合い半世紀、 その経験を基にして、不肖、「やぶ」のひとりごと、 つぶやくことに致しましょう。

そもそも「悩み」というものは、 生きるためには必要で、なくすものではありません。なくなるものでもありません。

むしろ成長するために、 悩みは欠かせぬ「必需品」。夢や希望を叶えたり、 幸せ求めて生きるには、あれやこれやと模索して、 試行錯誤をくり返し、悩まなければなりません。

「悩み」があるから人々は、 幸せつかんで朗らかな、 明るい日々が送れます。

「悩み」と言うのは不可能を、 可能にできる「優(すぐ)れもの」、明るい未来を切り開く、 「心の刃(やいば)」になるのです。

「そのうち何とかなるだろう」,「どうせ、今さら何になる」、平和ボケした考えで、 のんべんだらりと生きていりゃ、やがて不幸を招き入れ、 侘しい日々を送るでしょう。 

いわゆる「悩み」の中味には、 プラスの意味や価値を持ち、活力与えるポジティブな、 悩みもあれば反対に、停滞招くネガティブな、 ふたつの悩みがありまして、問題なのはマイナスの、 意味や価値持つネガティブな、悩みを抱えてウダウダと、 生きてちゃダメと言うのです。

幸、不幸の分かれ道、 分岐にあるのは「悩み方」、 どちらを選んで進むかは、 「あなた」の希望でご自由に、 どちらの道も選べます。

ところで悩みを速やかに、 解決するには「あるがまま、受け入れる」という究極の、 「受容の心」が欠かせません。

「たら、れば」思考で悔やんでも、 すべての物ごと出来事は、「起こるべくして起こるもの」、 「成るべくして成った」という、当然観に基づいた、 考え方や捉え方、 受け止め方が必要です。

さらに加えて言うならば、 行動起こしていくために、ピンチはチャンスと言うように、 両面観をはたらかせ、その時々の状況の、 中からプラスの意味や価値、見出す努力をしたならば、 「目先の一歩」を歩むのに、大きな力になるでしょう。

そして最後は「自信」です。おっかなびっくり生きてても、 何の役にも立ちません。

自信というのは字の如く、 自分を信頼することで、自分の持ってる可能性、 ひたすら信じて期待する。

さらに自分に対しては、 「かけがえのない存在」と、自分を大事にするならば、 どんな時でもくじけずに、「目先の一歩」は末永く、 歩み続けることでしょう。 

当然観に両面観、 肯定観の「三つ矢」、束ねて生きていくならば、 現代社会のストレスに、打ち克ち、逆境乗り越えて、どんな過酷な困難にも、へこたれないで生きて行く、 「折れない心」が育まれ、心的挫折を予防する、 「知的武装」が叶うでしょう。

人が生きるということは、 たとえどんなに辛くても、あるがままに受け入れて、 その時、「できる行動」を、続けることで状況を、 変えていく時間の連続が、 人生なんだと心得る。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

                     無断転載、引用はお控え下さい。

 

 

繁栄は心が反映しています。

「繁栄」は豊かな心の「反映」です。

広く世間を見渡せば、 いろんな家が建ってます。

日々、繁栄を繰り返し、 代々、続いている家や、昨日の栄華はウソのよう、 一夜で衰退する家や、裕福、貧乏、縁がなく、 地味で質素で建っている、鳴かず飛ばずの家もある。

同じ家でもこの「違い」、 一体、どこにあるのでしょう。

言葉遊びじゃないけれど、 同じ読み名の「繁栄」と、「反映」の字は仲良しで、 切っても切れない縁がある。

「繁栄」するかしないかは、 考え方や捉え方、受け止め方や「思い」など、 その人自身の内にある、心が「反映」するのです。

何を感じてどう思い、 どんな気持ちで生きてるか、見えない心の「反映」が、 見える「繁栄」映し出す。

まじめ、正直、素直さと、 謙虚な気持ちが支えてる、豊かな心の「反映」が、 すべての人が求めてる、健康、幸福、生きがいの、 三つの「繁栄」 与えます。

ちなみに心がひねくれて、 怠けたものであるならば、「繁栄」どころかその人に、 不幸が「反映」されるでしょう。

幸も不幸も金持ちも、 貧乏、病気や健康も、自分に関わる出来事の すべてに心が影響し、心が「反映」されてると、 肝に銘じていきること。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

                     無断転載、引用はお控え下さい。