自分も他人も「憂うつ」にならない生き方。「間・場・位置・礼・節・義」

自分も他人も「憂うつ」にならない生き方。「間」「場」「位置」「礼」「節」「義」

第一章「間(ま)」という意味を考える。

社会の中で生きるには、人を避けては生きられない。 人と人とが睦(むつ)まじく、 よりよい関係保つには、 「間(ま)」と「場」と「位置」と 「礼」「節」「義」、 六つの力が 必要です。

六つの力が なかったら、つんぼさじきか村八分、 孤立無縁の生活で、 つらさ、寂しさ、侘しさを、 飯のおかずにして暮らす、 はかない人生送るでしょう。

「人間」という二文字(ふたもじ)は、 「人」と「間(あいだ)」に分かれます。 本来、人と関わって、 生きているのが人ならば、 人間じゃなく「人関(じんかん)」と、 書くのが妥当(だとう)と言うものを、 何故か「我ら」は人間と、 呼ばれて生きているのです。

「人関」ならぬ「人間」の、 暮らしの中で不可欠な、 「間(ま)」という字には大切な、 意味がたくさんあるのです。

何をするにも手抜(てぬ)かりや、 手落ちが多く「間」が抜ける、 別名「とんま」と呼ばれてる、 「間抜け」じゃ生きていけません。

さらに加えて言うならば、 何をするにもだらだらと、 しまりがなくて「間」延びする。 空いた時間を有効に、 活用できず「間」が持てず、 無駄な時間をもて余す。

自分に対しバツ悪く、 きまりの悪さを感じつつ、 折り合い悪く「間」が悪い

やること成すこと後手(ごて)後手で、 約束ごとが守れない。 時間にルーズで 遅刻する。 何をするにも「間」に合わず、 あてにされない、役立たず。

さらに加えて言うならば、 「間」を合わせない、「間」が置けず、 「間」を配れない人がいて、 いずれも人とは円滑な、 関わり合いができません。

うまくつき合いしたければ、 「間」のもつ意味を考えて、 「間」違い起こしちゃいけません。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

自分も他人も「憂うつ」にならない生き方。「間」「場」「位置」「礼」「節」「義」

第二章「場(ば)」という意味を考える。

「場」という意味は人生の、 あらゆる場面のことであり、 そこにはいろんな人がいて、 百人百様さまざまに、 関わり合って生きてます。

そうした中で健やかに、 生きていくには場違いや、 場当たり的な言動を、 慎しまなければなりません。

トンチンカンやピンボケな、 行動起して顰蹙(ひんしゅく)を、 買われる人のほとんどは、 空気が読めないKY(ケーワイ)か、 常識なしの我がままか、 いずれどちらか知らないが、 「場慣(ばな)れ」をしてないことだけは、 確かなようでございます。

「場慣れ」というのはただ単に、 経験積めば誰でもが、 習得できるというような、 たやすいものではありません。

いろんな人と円滑に、 関わり合って生きるには、 多くの「場慣れ」を経験し、その場その場の雰囲気に、 合った言葉や動作など、 違和感与えぬ気配りや、 心配りをするのです。

さらに加えて言うならば、 いわゆる「場慣れ」をするために、 欠かせぬことは前もって、 目的、テーマを自覚して、 その場に臨む経験を、 多く積まなきゃなりません。

つまり「場数(ばかず)を積む」ことが、 「場慣れ」を可能にするのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

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第三章「位置(いち)」という意味を考える。

百人百様性格や、 好みが違う人たちと、 関わりながら生きるのが、 人生ならばなおのこと、 関わる「位置」をしっかりと、 保たなければなりません。

人づき合いや生活で、 「関わりづらさ」や「生きにくさ」、 感じて生きている人は、 不安、心配、先に立ち、 言いたいことが言えなくて、 がまん引っ込み断われず、 人に合わせてしまうとか、 肯定感が乏しくて、 自分の評価が低いため、 「何て自分はダメなの」と、 自責の念や嫌悪感、 常に抱いて苦悩する。

さらに加えて言うならば、 「仲良し、こよし」の関係が、 人付き合いの基本だと、 思つてるから生きにくい。

そうした人のほとんどは、 人付き合いで大切な、 関わる「位置」が知らなくて、 常に不安や戸惑いを、 抱えて生きているのです。

ところで好みや価値感が、 互いに違う者同志、 自分の意見を主張して、 互いに譲らずいたならば、 人間関係悪くなり、 トラブル続きになるでしょう。

それらを避ける方法は、 自分の意見はしっかりと、 伝えたあとで「どう思う」、 「いかがですか」と伺いを、 立てる会話をするのです。

そして話の内容に、 納得すれば折り合って、 折り合うことが出来なけりゃ、 無理に合わせることはなく、 違った意見を持つことは、 「お互いさま」と割り切って、 付き合うことが大事です。

人とき合いの鉄則(てっそく)は、 「伺い合って、折り合って、 お互いさま」の関係を、 保つところにあるのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

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第四章「礼(れい)」という意味を考える。

「礼」という字のその意味は、 社会の秩序を保つのに、 すべての人が守るべき、 生活規範の総称を、 表す言葉と知りつつも、 日々の暮らしや生活で、 「礼」をきちんと守る人、 そんなに多くはいないでしょう。

「礼」のつく字を表わせば、 謝礼、敬礼、拝礼の、 「謝意や敬意」の意味のほか、 礼服、礼装、礼偶や、 礼儀、礼法、礼節の、 「規範や作法」の意味もある。

ところで「礼」にはそのほかに、 無礼、非礼に失礼と、 「秩序を乱す」意味がある。

「礼」という字のその意味を、 正しく理解してるのは、 ほんのわずかと言ったのは、 現代社会の混迷を、 見れば容易に解かるはず。

テレビ、新聞、週刊誌、 所狭(ところせま)しと賑(にぎ)わせる、 事件、トラブル、事故を見りゃ、 からすが鳴かない日はあるが、 「無礼」のない日はありません。

ひとり一人が自覚して、 「礼」を尽くして生きたなら、 何も問題ないけれど、 日々の暮らしでほとんどの、 人は多かれ少なかれ、 「礼」に反して生きている。

礼儀作法や敬意など、 多少の乱れは許せるが、 社会を乱す「無礼」には、 厳(きび)しい対処がされるでしょう。

礼を尽くすということは、 「自他」が嫌がることはせず、 「自他」が喜ぶことをする。

そういう意味であるならば、 他人に迷惑かけるのも、 自分を粗末にすることも、 いずれも「礼」に反してる。

苦しいからと死を選び、 親、兄弟を泣かせたり、 他人の生命(いのち)を奪うのは、 言語道断、最大の、 「無礼」なことと言えるでしょう。

生きる上ではさまざまな、 悩みや問題抱えたり、 期待はずれや挫折など、 予期せぬことに遭遇(そうぐう)し、 二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくて、 どうにもならない時がある。

しかしどんなにつらくても、 夢や希望を持ちながら、 生きる姿や態度こそ、 この世に生まれた人間の、 「礼」に対する基本的な、 「姿である」と言えるでしょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

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第五章「節(せつ)」という意味を考える。

「節」というのは節度です。 節度と限度は違います。 限度というのはこれ以上、 越すに越せない限りある、 決まった広がり指してます。

これに対して節度とは、 限度内での頃(ころ)合いや、 ほどよい度合いを言いますが、 現代人のほとんどは、 節度や限度の感覚を、 大きく崩して生きてます。

節度や限度の感覚が、 大きく崩れたその訳は、 現代社会の「豊かさ」や、「個人主義」なる考えが、 大きく影響しています。

現代社会の豊かさは、 食べたいものを好きなだけ、 与えてくれるし仕事でも、 時間に「ゆとり」があるらしく、 あくせくはたらくこともなく、 手抜きをしてもとがめない。

子どもにとっても同様で、 親の小言にがまんして、 つき合うことはありません。 自分の部屋にひきこもり、 豊かな備品に囲まれて、 「我が世の春」で暮らせます。

物が壊れりゃ苦労して、 修理するより新品が、 いつでも買える時代です。

ひもじさ抱えて生きるなど、 まったく無縁の世界です。 春夏秋冬、一年中、 暑さ寒さに耐えるなど、 一切無用の世界です。

さらに社会の「豊かさ」は、 煩(わずら)わしくて億劫(おっくう)な、 人間関係持たずとも、 「一人世界」のスペースを、 しっかり与えてくれるから、 対人スキルを身につける、 学習機会を与えません。

工夫、忍耐、創造を、 すでに忘れた人間に、 節度、限度を求めても、 「猫に小判」か「馬耳東風 (ばじとうふう)」、 「豚に真珠」が関の山。

節度、限度の感覚を、 持たずに生きていくことは、 赤信号の交差点、 左右、確認しないまま、 渡っているのと同じです。

不可抗力は別にして、 事件、トラブル事故などの、 その原因は人間の、 節度、限度をわきまえぬ、 行動結果であるのです。

一度崩れた感覚は、 容易に元に戻らぬが、 ひとり一人が真剣に、 まじめ、正直、素直さと、 謙虚な気持ちで本来の、 「豊かさ」というその意味を、 考えなくてはなりません。

ほど良い度合いや頃合いで、 現代社会の「豊かさ」を、 見つめ直していくならば、 きっとそこには幸せな、 健やか人生待ってます。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

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第六章「義(ぎ)」という意味を考える。

「義」という意味はものごとの、 道理や条理と理解され、 「仁」「義」「礼」「智」に「信」という、 正義や義務の意味があり、 利害を捨てて人のため、 社会のために尽すこと。

「義をみてせざるは勇無きなり」、 論語の「言葉」のその意味は、 やるべきことと知りながら、 やらずにいるのはただひとつ、 勇気がないと言うことです。

ところが現代社会では、 やるべきことと知りながら、 やらずにいるのは初めから、 「その気」「やる気」がないのです。

「その気」「やる気」がない訳は、 ひとり一人の性格や、 考え方もあるだろうが、 やる気を失くす背景には、 社会が抱える問題が、 大きく影響しています。

現代社会は競争や、 格差社会というように、 常に「勝ち組」「負け組」を、 意識しながら生きるため、 自分に都合が良いければ、 他人のことは構(かま)わない、 一方的で我がままな、 「我理」を育む環境が、 そこら、かしこにあるのです。

その気、やる気は「我理」まかせ。 自分に都合が良いければ、 その気、やる気も出るだろうが、 そうでなければ無関心。 まして面倒臭いもの、 ものの見事にお断り。

「我理」が「道理」を越えたなら、 社会秩序は守られず、 大いに混乱するでしょう。

ところで「義」とは世の中で、 道理や条理に従って、 利害を捨てて人のため、 社会に尽くすものならば、 奉仕活動ボランティア、 無償行為のすべてには、 「義」という心が生きている。

日々の暮らしにさまざまな、 つき合い「事(ごと)」や「義理ごと」と、 言われるものが目白押し。

結婚式に葬式や、 新年会に忘年会。 病気見舞いを受けたなら、 快気祝いでお礼する。 入学祝いに卒業や、 入社祝いに退職と、 「事(ごと)」の大小、合わせたら、 赤と黒との「のし袋」、 飛び交う日々が続きます。

つき合い「事(ごと)」や「義理ごと」を、 「待ってました」と喜んで、 受けてる人もいるだろう。 しかし多くの人たちは、 できれば避けて通りたい。

むしろ受けたくないけれど、 仏頂面や素気(そっけ)ない、 顔も見せずに受けるのは、 「義」という心があるからで、 まともな人はそうします。

たとえ嫌でもつき合いを、 保つ心が「義」の心。 義理を欠いても平っちゃら、 「かえるの面に小便」は、 やがて恥かきこの世では、 孤立無縁のひとりっ子。 「村八分」から「村十分」、 誰も助けてくれません。

不平、不満は棚に上げ、 日々の暮らしに感謝して、 笑顔で生きているならば、 求めなくても「義」の心、 しっかり「あなた」に宿ります。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

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