社会的自立に向けて。四つの「自己」を確立する。
かけがいのない人生を、 さらに味わい深くする、 次に掲げる「六章」は、 生きがい感じて健やかに、 生きてくための糧(かて)として、 大きな力になるでしょう。
料理で言うなら調味料、 味を整えまろやかな、旨(うま)さ引き出す勝(すぐ)れ者。 使ず仕舞(じま)いでいたならば、 正に宝の持腐れ。 人生食堂、折に触れ、 上手に使っていきましょう。
その①社会的自立へむけて「自己選択」
いわゆる自立というものは、 「自ら立つ」と書くように、 自分の力で飯(めし)を喰い、 自分のねぐらで雨、風を、 しのいで生きることを言う。
ところで自立を支えてる、 力はたくさんあるけれど、 自己選択と自己管理、 自己責任と自己処理の、 四つの「自力」がなかったら、 「自立」は長持ちしないでしょう。
現代社会はさまざまな、 情報あふれる時代です。 そうした中で速やかに、 自分を活かす情報を、 選ばなければなりません。
「寄らば大樹の蔭(かげ)」にいて、 「長いものには巻かれろ」と、 呑気(のんき)に構えていたならば、 宛行扶持(あてがいぶち)の飼い犬や、 カゴで飼われる鳥のように、 自ら情報選択し、 活かすことなどできません。
常にアンテナ高くして、 生きた情報選ぶには、 判断力と決断の、 ふたつの力を合わせ持つ、 「選択力」が大事です。
さらに加えて言うならば、 多けりゃ良いと誤解して、 無駄な情報集めたり、 他人が選ぶ情報に、 影響されているようじゃ、 自立は遥(はる)か彼方です。
掛替(かけが)えのない人生の、 舞台の主役は自分です。 人生舞台というものは、 その時々の状況に、 適応しながら速やかに、 判断、決断するという、 常に「選択」迫(せま)られる、 「自作自演」の舞台です。
喜劇になるか反対に、 悲劇になるかのポイントは、 台本(シナリオ)づくりに欠かせない、 情報集めの判断と、 決断力を合わせ持つ、 「選択力」にかかってる。
そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼
その②社会的自立へむけて「自己管理」
自己選択と同様に、 自立に欠かせぬものとして、 常に自分を管理する、 力がなければなりません。
いわゆる管理というものは、 監視の意味もありますが、 一般社会の解釈は、 管理はむしろ「監督」の、 意味持つ言葉であるようです。
管理すなわち「監督」は、 スポーツ界の監督や、 舞台映画の監督や、 建設現場の監督など、 一般社会で監督と、 呼ばれる人は多数いる。
いずれも共通してるのは、 効率的かつ効果的、 ものごとうまくいくように、 広く全体把握して、 あらゆる場面や状況に、 適宜順応するという、 力を持っているのです。
多くの人からあてにされ、 必要とされ、頼られる、 立派な人は常日頃、 あらゆる面で自己管理、 厳しくしっかりやってます。
日々の暮らしや生活で、 「管理」と名のつくことがらは、 たくさんあるがその中で、 基本的な生活の、 リズムをきちんと守るには、 「時間管理」が必要です。
次に大事な管理とは、 常識マナー、道徳の、 「モラルの管理」にさらに又、 毎日、元気に過ごすため、 精神的な安定や、 丈夫な身体をつくるなど、 健康面を管理する、 「体調管理」が必要です。
さらに知識や知恵を得る、 「知的管理」も大事だが、 特に注意をしなければ、 ならない「管理」がふたつある。
性風俗に入り浸(びた)り、 浮気や不倫をしてみたり、 のぞき、セクハラ「胸タッチ」、 痴漢行為をするなどは、 「性的管理」がお粗末な、 哀れな人と言えるでしょう。
次はお金にだらしなく、 金銭感覚まるでなし、 ギャンブルなどで借金し、 サラ金会社と「かくれんぼ」、 「追いかけごっこ」をしてるのは、 「金銭管理」が悪い人。 いずれ不幸に なるでしょう。
たった一度の人生は、 「自作自演の悲喜劇」で、 喜劇で明るく暮らすのか、 悲劇でわびしく暮らすのか、 すべて「管理」にかかってる。
常に厳しく「自己管理」、 「自己監督」を怠らず、 豊かな人生築きましょう。
そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼
その③社会的自立へ向けて「自己責任」
他国のことは知らないが、 知ってる限り日本ほど、 「自由」が多い国はない。
言論、信仰、表現の、 自由をはじめ生活の、 あらゆる面が自由という、 こんな素敵な国はなく、 ほんとにこれでいいのかと、 少しは遠慮する気持ち、 持ってもおかしくないでしょう。
本来、自由というものは、 束縛(そくばく)、抑圧されないで、 何をやっても許される、 「自由気まま」な意味ですが、 一般社会の自由とは、 何をやっても自由だが、 その責任は取るという、 前提条件あるのです。
つまり自由と責任は、 表裏一体、密接に、 つながり合っているために、 自由の数だけ責任も、 同じ数だけあるのです。
自由に対する責任は、 「法律的」と「道義的」、 ふたつの責任ありまして、 「法律的な責任」は、 逃れることはできないが、 問題なのは「道義的、 責任」という取り方を、 いかに取るかが社会的、 自立を図る鍵(かぎ)になる。
道義の意味は「道徳の、 すじみち」だけど生き方や、 考え方や価値感は、 人それぞれに違うから、 責任を取る、取らないは、 一人ひとりの「道義的、 感覚」によって決まります。
「粗にして野でも卑ではない」、 賢者の言葉を借りるなら、 人に迷惑かけながら、 「ごめん、すまん」で済ませたり、 バツが悪いと嘘をつき、 シラを切ってはシャーシャーと、 生きてる人の感覚は、 道義も「へちま」もありゃしない、 「卑(いやし)しさ」だけがすべてです。
「自立」は「自律」と同意語で、 いかなる時も自らを、 「律する」気持ちを強く持ち、 人に対して思いやり、 心配りを忘れない。
人が嫌がる行動を、 慎しむ人の心には、 「悪さ」に対し恥を知り、 自分に関わる問題に、 素直に向き合い潔く、 責任を取る「道義的、 責任感」があるのです。
いわゆる自立に必要な、 自己責任の中味には、 法的責任、道義的、 ふたつの責任ありますが、 その責任の取り方が、 幸、不幸の行き先を、 決定づけるY字路の、 「通行手形」になるのです。
そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼
その④社会的自立へ向けて「自己処理」
人生すべては「自力」です。 自力がなければはじまらない。 「他力」も確かに大事だが、 自分を活かす最適の、 他力かどうかを見極める、 力は正に「自力」です。
自己選択や自己管理、 自己責任や自己処理も、 すべて自力にかかってる。
ところで自立に必要な、 「自己処理」というその意味は、 自分に関する一切を、 自分の力で処理をする、 そうした力を言いますが、 言うはたやすく実際に、 行うことは難しい。
自己処理できない原因は、 自分に関する問題に、 対する「気づき」がないのです。
悩みをはじめさまざまな、 自分に関する問題を、 他人のせいにしてみたり、 「そのうち何とかなるだろう」、呑気に構えて先送る、 グズと言われる人たちは、自ら「気づく」ことがない。
気づきというのは心から、 「なるほどなぁ」とつぶやいて、 納得、合点(がてん)がいくことで、 日々の暮らしや生活で、 大事なことは日頃から、 自分に関わる問題は、 どんな理由があろうとも、 「すべて自分にある」という、 そうした思いや考えを、 強く持たなきゃなりません。
常に「気づいて」いるならば、 自分に関わる問題の、 自己処理などは朝めし前。
人をあてにし依存して、 人を頼ってみたところ、 一時凌(しの)ぎのことであり、 自ら解決できないと、 とどのつまりは木阿弥(もくあみ)の、 イタチゴッコのくり返し。
社会の中で自立して、 日々の生活健やかに、 平穏無事に暮らすには、 自己選択や自己管理、 自己責任や自己処理の、 四つの力が要(い)ることは、 わかっていても初めから、 持ってる人はおりません。
大事なことは日頃から、 まじめ、正直、素直さと、 謙虚な気持ちを忘れずに、 「自分育て」をするならば、 四つの力は 自(おの)ずから、 勝手についてくるのです。
自立というのは生(なま)物で、 放って置けば腐ります。
いつも新鮮生き生きと, 保つためには日頃から、 日々の生活顧(かえり)みて、 マンネリズムに陥らず、 おとといよりも昨日より、 今日をしっかり生きるのが、 大事なことと心得る。
「初心不可忘(しょしんふかぼう)」「毎日が、 初日」であると考えて、 肝に銘じて生きてれば、 たとえ失敗しようとも、 落ち込むことはありません。
仮に成功してみても、 おごり高ぶることもなく、 どんな時でもあるがまま、 現実的に受け入れて、 努力を重ねていくことで、 「正しい自立」の生き方が、 そこに生まれてくるのです。
人それぞれの力には、 劣(おと)り優(まさ)りはあるけれど、 非力であるのは仕方ない、 無力であってはいけません。
そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼
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