善悪論を捨て、損得論で生きる。
一般社会の善悪の、 判断基準は適当で、 皆(みんな)が良ければ良いとなり、 皆が悪けりゃ悪くなる。
「永田町」の政治家の、 「お家芸」とも言えるべく、 数の論理で決めている。
一方、個人の善悪の、 判断基準は単純で、 好みに合えば良いとなり、 そうでなければ悪くなる。
しかしこうした基準では、 個々の都合で善悪が、 判断されてしまうため、 社会の秩序や良俗は、 機能を失い保たれず、 大いに混乱するでしょう。
そこで「お国」は国民に、 国家の力で善悪の、 判断基準を示すため、 法なるものを制定し、 強制的に善悪の、 判断基準を押しつける。
確かに法の定めには、 善と悪とが明記され、 すべての人は従うが、 何故(なにゆえ)それが善なのか、 どうしてこれが悪なのか、 法律上の善悪の、 根拠を理解する人は、 おそらくそんなにいないはず。
法律だからと鵜呑(うの)みにし、 「なるほどなぁ」と心から、 納得している国民が、 どれほどいるか疑問です。
例えば人を殺すのは、 悪いことだと法は言う。 確かにそれは正しいし、 誰もが法を守るでしょう。
ところで社会の善悪や、 法律上の善悪は、 所詮(しょせん)、「他人」がつくるもの。
それに対して損得は、 自分自身が納得し、 すぐに理解ができるもの。
さらに、加えて言うならば、 本来、人というものは、 得することはやるけれど、 損することはしたくない、 そうした欲求持ってます。
そのためすべての行動は、 善悪論に基づいて、 行動するというよりは、 損得論に基づいて、 人は動いていることを、 理解しないといけません。
ちなみにここでの「損・得」は、 物やお金に対しての、 損か得かのことでなく、 損というのは苦しくて、 つらい、悲しいことを言い、 得というのは快(こころよ)く、 楽であるとか穏やかな、 気分で暮らせることをいう、 感情面や感覚の、 次元の世界を言ってます。
日々の暮らしで事故もなく、 無事に暮らしていけるのは、 一人ひとりが法律を、 守って生きているからで、 そのこと自体に反論や、 異論はないが実際に、 法を守るということの、 「真意」は別にあるのです。
例えば人を殺したり、 物を盗(と)ったりしないのは、 法で定めた善悪の、 決まりの所為(せい)もあるけれど、 罪を犯せば罰として、 拘束されることによる、 苦痛が何より「損」だから、 人は「悪さ」や過ちを、 犯さぬようにするのです。
日々の暮らしで生きがいや、 やりがい感じている人は、 善悪論にこだわらず、 損か得かを見極めて、 自ら納得することを、 自信をもってやってます。
さらに加えて言うならば、 「善悪論」は「建て前」で、 「損得論」は「本音」です。
悩みを抱えている人は、 善悪論を優先し、 損得論をおろそかに、 生きる傾向あるために、 イライラしたり憂うつな、 思いや感情抱きます。
「建て前」論で生きてれば、 「不幸な人生」あるだけで、 何の「得」にもなりません。
「本音」と「建て前」仲良しの、 「自己一致」した 生き方に、 「納得人生」得られます。
いわゆる「良い子」と言う人は、 「本音」隠して「建て前」の、 仮面の演技をするために、 いつも疲れて生きにくい。
悩みを持たない生き方は、 「本音」と「建て前」仲良しの、 関係性から生まれます。
「自己一致」と言う言葉、 時々、耳にするけれど、 つまり、「本音」と「建て前」が、 一致している状態を、 言うのであって幸せな、 生きがいのある人生は、 「自己一致」した生き方が、 与えるものと心得る。
常に冷静沈着に、 善か悪かに惑わずに、 得か損かを考える、心に「ゆとり」を持ちましょう。
そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼
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