自分も他人も「憂うつ」にならない生き方。「間・場・位置・礼・節・義」

自分も他人も「憂うつ」にならない生き方。「間」「場」「位置」「礼」「節」「義」

第一章「間(ま)」という意味を考える。

社会の中で生きるには、人を避けては生きられない。 人と人とが睦(むつ)まじく、 よりよい関係保つには、 「間(ま)」と「場」と「位置」と 「礼」「節」「義」、 六つの力が 必要です。

六つの力が なかったら、つんぼさじきか村八分、 孤立無縁の生活で、 つらさ、寂しさ、侘しさを、 飯のおかずにして暮らす、 はかない人生送るでしょう。

「人間」という二文字(ふたもじ)は、 「人」と「間(あいだ)」に分かれます。 本来、人と関わって、 生きているのが人ならば、 人間じゃなく「人関(じんかん)」と、 書くのが妥当(だとう)と言うものを、 何故か「我ら」は人間と、 呼ばれて生きているのです。

「人関」ならぬ「人間」の、 暮らしの中で不可欠な、 「間(ま)」という字には大切な、 意味がたくさんあるのです。

何をするにも手抜(てぬ)かりや、 手落ちが多く「間」が抜ける、 別名「とんま」と呼ばれてる、 「間抜け」じゃ生きていけません。

さらに加えて言うならば、 何をするにもだらだらと、 しまりがなくて「間」延びする。 空いた時間を有効に、 活用できず「間」が持てず、 無駄な時間をもて余す。

自分に対しバツ悪く、 きまりの悪さを感じつつ、 折り合い悪く「間」が悪い

やること成すこと後手(ごて)後手で、 約束ごとが守れない。 時間にルーズで 遅刻する。 何をするにも「間」に合わず、 あてにされない、役立たず。

さらに加えて言うならば、 「間」を合わせない、「間」が置けず、 「間」を配れない人がいて、 いずれも人とは円滑な、 関わり合いができません。

うまくつき合いしたければ、 「間」のもつ意味を考えて、 「間」違い起こしちゃいけません。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

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第二章「場(ば)」という意味を考える。

「場」という意味は人生の、 あらゆる場面のことであり、 そこにはいろんな人がいて、 百人百様さまざまに、 関わり合って生きてます。

そうした中で健やかに、 生きていくには場違いや、 場当たり的な言動を、 慎しまなければなりません。

トンチンカンやピンボケな、 行動起して顰蹙(ひんしゅく)を、 買われる人のほとんどは、 空気が読めないKY(ケーワイ)か、 常識なしの我がままか、 いずれどちらか知らないが、 「場慣(ばな)れ」をしてないことだけは、 確かなようでございます。

「場慣れ」というのはただ単に、 経験積めば誰でもが、 習得できるというような、 たやすいものではありません。

いろんな人と円滑に、 関わり合って生きるには、 多くの「場慣れ」を経験し、その場その場の雰囲気に、 合った言葉や動作など、 違和感与えぬ気配りや、 心配りをするのです。

さらに加えて言うならば、 いわゆる「場慣れ」をするために、 欠かせぬことは前もって、 目的、テーマを自覚して、 その場に臨む経験を、 多く積まなきゃなりません。

つまり「場数(ばかず)を積む」ことが、 「場慣れ」を可能にするのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

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第三章「位置(いち)」という意味を考える。

百人百様性格や、 好みが違う人たちと、 関わりながら生きるのが、 人生ならばなおのこと、 関わる「位置」をしっかりと、 保たなければなりません。

人づき合いや生活で、 「関わりづらさ」や「生きにくさ」、 感じて生きている人は、 不安、心配、先に立ち、 言いたいことが言えなくて、 がまん引っ込み断われず、 人に合わせてしまうとか、 肯定感が乏しくて、 自分の評価が低いため、 「何て自分はダメなの」と、 自責の念や嫌悪感、 常に抱いて苦悩する。

さらに加えて言うならば、 「仲良し、こよし」の関係が、 人付き合いの基本だと、 思つてるから生きにくい。

そうした人のほとんどは、 人付き合いで大切な、 関わる「位置」が知らなくて、 常に不安や戸惑いを、 抱えて生きているのです。

ところで好みや価値感が、 互いに違う者同志、 自分の意見を主張して、 互いに譲らずいたならば、 人間関係悪くなり、 トラブル続きになるでしょう。

それらを避ける方法は、 自分の意見はしっかりと、 伝えたあとで「どう思う」、 「いかがですか」と伺いを、 立てる会話をするのです。

そして話の内容に、 納得すれば折り合って、 折り合うことが出来なけりゃ、 無理に合わせることはなく、 違った意見を持つことは、 「お互いさま」と割り切って、 付き合うことが大事です。

人とき合いの鉄則(てっそく)は、 「伺い合って、折り合って、 お互いさま」の関係を、 保つところにあるのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

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第四章「礼(れい)」という意味を考える。

「礼」という字のその意味は、 社会の秩序を保つのに、 すべての人が守るべき、 生活規範の総称を、 表す言葉と知りつつも、 日々の暮らしや生活で、 「礼」をきちんと守る人、 そんなに多くはいないでしょう。

「礼」のつく字を表わせば、 謝礼、敬礼、拝礼の、 「謝意や敬意」の意味のほか、 礼服、礼装、礼偶や、 礼儀、礼法、礼節の、 「規範や作法」の意味もある。

ところで「礼」にはそのほかに、 無礼、非礼に失礼と、 「秩序を乱す」意味がある。

「礼」という字のその意味を、 正しく理解してるのは、 ほんのわずかと言ったのは、 現代社会の混迷を、 見れば容易に解かるはず。

テレビ、新聞、週刊誌、 所狭(ところせま)しと賑(にぎ)わせる、 事件、トラブル、事故を見りゃ、 からすが鳴かない日はあるが、 「無礼」のない日はありません。

ひとり一人が自覚して、 「礼」を尽くして生きたなら、 何も問題ないけれど、 日々の暮らしでほとんどの、 人は多かれ少なかれ、 「礼」に反して生きている。

礼儀作法や敬意など、 多少の乱れは許せるが、 社会を乱す「無礼」には、 厳(きび)しい対処がされるでしょう。

礼を尽くすということは、 「自他」が嫌がることはせず、 「自他」が喜ぶことをする。

そういう意味であるならば、 他人に迷惑かけるのも、 自分を粗末にすることも、 いずれも「礼」に反してる。

苦しいからと死を選び、 親、兄弟を泣かせたり、 他人の生命(いのち)を奪うのは、 言語道断、最大の、 「無礼」なことと言えるでしょう。

生きる上ではさまざまな、 悩みや問題抱えたり、 期待はずれや挫折など、 予期せぬことに遭遇(そうぐう)し、 二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくて、 どうにもならない時がある。

しかしどんなにつらくても、 夢や希望を持ちながら、 生きる姿や態度こそ、 この世に生まれた人間の、 「礼」に対する基本的な、 「姿である」と言えるでしょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

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第五章「節(せつ)」という意味を考える。

「節」というのは節度です。 節度と限度は違います。 限度というのはこれ以上、 越すに越せない限りある、 決まった広がり指してます。

これに対して節度とは、 限度内での頃(ころ)合いや、 ほどよい度合いを言いますが、 現代人のほとんどは、 節度や限度の感覚を、 大きく崩して生きてます。

節度や限度の感覚が、 大きく崩れたその訳は、 現代社会の「豊かさ」や、「個人主義」なる考えが、 大きく影響しています。

現代社会の豊かさは、 食べたいものを好きなだけ、 与えてくれるし仕事でも、 時間に「ゆとり」があるらしく、 あくせくはたらくこともなく、 手抜きをしてもとがめない。

子どもにとっても同様で、 親の小言にがまんして、 つき合うことはありません。 自分の部屋にひきこもり、 豊かな備品に囲まれて、 「我が世の春」で暮らせます。

物が壊れりゃ苦労して、 修理するより新品が、 いつでも買える時代です。

ひもじさ抱えて生きるなど、 まったく無縁の世界です。 春夏秋冬、一年中、 暑さ寒さに耐えるなど、 一切無用の世界です。

さらに社会の「豊かさ」は、 煩(わずら)わしくて億劫(おっくう)な、 人間関係持たずとも、 「一人世界」のスペースを、 しっかり与えてくれるから、 対人スキルを身につける、 学習機会を与えません。

工夫、忍耐、創造を、 すでに忘れた人間に、 節度、限度を求めても、 「猫に小判」か「馬耳東風 (ばじとうふう)」、 「豚に真珠」が関の山。

節度、限度の感覚を、 持たずに生きていくことは、 赤信号の交差点、 左右、確認しないまま、 渡っているのと同じです。

不可抗力は別にして、 事件、トラブル事故などの、 その原因は人間の、 節度、限度をわきまえぬ、 行動結果であるのです。

一度崩れた感覚は、 容易に元に戻らぬが、 ひとり一人が真剣に、 まじめ、正直、素直さと、 謙虚な気持ちで本来の、 「豊かさ」というその意味を、 考えなくてはなりません。

ほど良い度合いや頃合いで、 現代社会の「豊かさ」を、 見つめ直していくならば、 きっとそこには幸せな、 健やか人生待ってます。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

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第六章「義(ぎ)」という意味を考える。

「義」という意味はものごとの、 道理や条理と理解され、 「仁」「義」「礼」「智」に「信」という、 正義や義務の意味があり、 利害を捨てて人のため、 社会のために尽すこと。

「義をみてせざるは勇無きなり」、 論語の「言葉」のその意味は、 やるべきことと知りながら、 やらずにいるのはただひとつ、 勇気がないと言うことです。

ところが現代社会では、 やるべきことと知りながら、 やらずにいるのは初めから、 「その気」「やる気」がないのです。

「その気」「やる気」がない訳は、 ひとり一人の性格や、 考え方もあるだろうが、 やる気を失くす背景には、 社会が抱える問題が、 大きく影響しています。

現代社会は競争や、 格差社会というように、 常に「勝ち組」「負け組」を、 意識しながら生きるため、 自分に都合が良いければ、 他人のことは構(かま)わない、 一方的で我がままな、 「我理」を育む環境が、 そこら、かしこにあるのです。

その気、やる気は「我理」まかせ。 自分に都合が良いければ、 その気、やる気も出るだろうが、 そうでなければ無関心。 まして面倒臭いもの、 ものの見事にお断り。

「我理」が「道理」を越えたなら、 社会秩序は守られず、 大いに混乱するでしょう。

ところで「義」とは世の中で、 道理や条理に従って、 利害を捨てて人のため、 社会に尽くすものならば、 奉仕活動ボランティア、 無償行為のすべてには、 「義」という心が生きている。

日々の暮らしにさまざまな、 つき合い「事(ごと)」や「義理ごと」と、 言われるものが目白押し。

結婚式に葬式や、 新年会に忘年会。 病気見舞いを受けたなら、 快気祝いでお礼する。 入学祝いに卒業や、 入社祝いに退職と、 「事(ごと)」の大小、合わせたら、 赤と黒との「のし袋」、 飛び交う日々が続きます。

つき合い「事(ごと)」や「義理ごと」を、 「待ってました」と喜んで、 受けてる人もいるだろう。 しかし多くの人たちは、 できれば避けて通りたい。

むしろ受けたくないけれど、 仏頂面や素気(そっけ)ない、 顔も見せずに受けるのは、 「義」という心があるからで、 まともな人はそうします。

たとえ嫌でもつき合いを、 保つ心が「義」の心。 義理を欠いても平っちゃら、 「かえるの面に小便」は、 やがて恥かきこの世では、 孤立無縁のひとりっ子。 「村八分」から「村十分」、 誰も助けてくれません。

不平、不満は棚に上げ、 日々の暮らしに感謝して、 笑顔で生きているならば、 求めなくても「義」の心、 しっかり「あなた」に宿ります。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

社会的自立へ向けて。 自己選択、自己管理、自己責任、自己処理。

社会的自立に向けて。四つの「自己」を確立する。

かけがいのない人生を、 さらに味わい深くする、 次に掲げる「六章」は、 生きがい感じて健やかに、 生きてくための糧(かて)として、 大きな力になるでしょう。

料理で言うなら調味料、 味を整えまろやかな、旨(うま)さ引き出す勝(すぐ)れ者。 使ず仕舞(じま)いでいたならば、 正に宝の持腐れ。 人生食堂、折に触れ、 上手に使っていきましょう。

その①社会的自立へむけて「自己選択」

いわゆる自立というものは、 「自ら立つ」と書くように、 自分の力で飯(めし)を喰い、 自分のねぐらで雨、風を、 しのいで生きることを言う。

ところで自立を支えてる、 力はたくさんあるけれど、 自己選択と自己管理、 自己責任と自己処理の、 四つの「自力」がなかったら、 「自立」は長持ちしないでしょう。

現代社会はさまざまな、 情報あふれる時代です。 そうした中で速やかに、 自分を活かす情報を、 選ばなければなりません。

「寄らば大樹の蔭(かげ)」にいて、 「長いものには巻かれろ」と、 呑気(のんき)に構えていたならば、 宛行扶持(あてがいぶち)の飼い犬や、 カゴで飼われる鳥のように、 自ら情報選択し、 活かすことなどできません。

常にアンテナ高くして、 生きた情報選ぶには、 判断力と決断の、 ふたつの力を合わせ持つ、 「選択力」が大事です。

さらに加えて言うならば、 多けりゃ良いと誤解して、 無駄な情報集めたり、 他人が選ぶ情報に、 影響されているようじゃ、 自立は遥(はる)か彼方です。

掛替(かけが)えのない人生の、 舞台の主役は自分です。 人生舞台というものは、 その時々の状況に、 適応しながら速やかに、 判断、決断するという、 常に「選択」迫(せま)られる、 「自作自演」の舞台です。

喜劇になるか反対に、 悲劇になるかのポイントは、 台本(シナリオ)づくりに欠かせない、 情報集めの判断と、 決断力を合わせ持つ、 「選択力」にかかってる。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

その②社会的自立へむけて「自己管理」

自己選択と同様に、 自立に欠かせぬものとして、 常に自分を管理する、 力がなければなりません。

いわゆる管理というものは、 監視の意味もありますが、 一般社会の解釈は、 管理はむしろ「監督」の、 意味持つ言葉であるようです。

管理すなわち「監督」は、 スポーツ界の監督や、 舞台映画の監督や、 建設現場の監督など、 一般社会で監督と、 呼ばれる人は多数いる。

いずれも共通してるのは、 効率的かつ効果的、 ものごとうまくいくように、 広く全体把握して、 あらゆる場面や状況に、 適宜順応するという、 力を持っているのです。

多くの人からあてにされ、 必要とされ、頼られる、 立派な人は常日頃、 あらゆる面で自己管理、 厳しくしっかりやってます。

日々の暮らしや生活で、 「管理」と名のつくことがらは、 たくさんあるがその中で、 基本的な生活の、 リズムをきちんと守るには、 「時間管理」が必要です。

次に大事な管理とは、 常識マナー、道徳の、 「モラルの管理」にさらに又、 毎日、元気に過ごすため、 精神的な安定や、 丈夫な身体をつくるなど、 健康面を管理する、 「体調管理」が必要です。

さらに知識や知恵を得る、 「知的管理」も大事だが、 特に注意をしなければ、 ならない「管理」がふたつある。

性風俗に入り浸(びた)り、 浮気や不倫をしてみたり、 のぞき、セクハラ「胸タッチ」、 痴漢行為をするなどは、 「性的管理」がお粗末な、 哀れな人と言えるでしょう。

次はお金にだらしなく、 金銭感覚まるでなし、 ギャンブルなどで借金し、 サラ金会社と「かくれんぼ」、 「追いかけごっこ」をしてるのは、 「金銭管理」が悪い人。 いずれ不幸に なるでしょう。

たった一度の人生は、 「自作自演の悲喜劇」で、 喜劇で明るく暮らすのか、 悲劇でわびしく暮らすのか、 すべて「管理」にかかってる。

常に厳しく「自己管理」、 「自己監督」を怠らず、 豊かな人生築きましょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

その③社会的自立へ向けて「自己責任」

他国のことは知らないが、 知ってる限り日本ほど、 「自由」が多い国はない。

言論、信仰、表現の、 自由をはじめ生活の、 あらゆる面が自由という、 こんな素敵な国はなく、 ほんとにこれでいいのかと、 少しは遠慮する気持ち、 持ってもおかしくないでしょう。

本来、自由というものは、 束縛(そくばく)、抑圧されないで、 何をやっても許される、 「自由気まま」な意味ですが、 一般社会の自由とは、 何をやっても自由だが、 その責任は取るという、 前提条件あるのです。

つまり自由と責任は、 表裏一体、密接に、 つながり合っているために、 自由の数だけ責任も、 同じ数だけあるのです。

自由に対する責任は、 「法律的」と「道義的」、 ふたつの責任ありまして、 「法律的な責任」は、 逃れることはできないが、 問題なのは「道義的、 責任」という取り方を、 いかに取るかが社会的、 自立を図る鍵(かぎ)になる

道義の意味は「道徳の、 すじみち」だけど生き方や、 考え方や価値感は、 人それぞれに違うから、 責任を取る、取らないは、 一人ひとりの「道義的、 感覚」によって決まります。

「粗にして野でも卑ではない」、 賢者の言葉を借りるなら、 人に迷惑かけながら、 「ごめん、すまん」で済ませたり、 バツが悪いと嘘をつき、 シラを切ってはシャーシャーと、 生きてる人の感覚は、 道義も「へちま」もありゃしない、 「卑(いやし)しさ」だけがすべてです

「自立」は「自律」と同意語で、 いかなる時も自らを、 「律する」気持ちを強く持ち、 人に対して思いやり、 心配りを忘れない。

人が嫌がる行動を、 慎しむ人の心には、 「悪さ」に対し恥を知り、 自分に関わる問題に、 素直に向き合い潔く、 責任を取る「道義的、 責任感」があるのです。

いわゆる自立に必要な、 自己責任の中味には、 法的責任、道義的、 ふたつの責任ありますが、 その責任の取り方が、 幸、不幸の行き先を、 決定づけるY字路の、 「通行手形」になるのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

その④社会的自立へ向けて「自己処理」

人生すべては「自力」です。 自力がなければはじまらない。 「他力」も確かに大事だが、 自分を活かす最適の、 他力かどうかを見極める、 力は正に「自力」です。

自己選択や自己管理、 自己責任や自己処理も、 すべて自力にかかってる。

ところで自立に必要な、 「自己処理」というその意味は、 自分に関する一切を、 自分の力で処理をする、 そうした力を言いますが、 言うはたやすく実際に、 行うことは難しい。

自己処理できない原因は、 自分に関する問題に、 対する「気づき」がないのです。

悩みをはじめさまざまな、 自分に関する問題を、 他人のせいにしてみたり、 「そのうち何とかなるだろう」、呑気に構えて先送る、 グズと言われる人たちは、自ら「気づく」ことがない。

気づきというのは心から、 「なるほどなぁ」とつぶやいて、 納得、合点(がてん)がいくことで、 日々の暮らしや生活で、 大事なことは日頃から、 自分に関わる問題は、 どんな理由があろうとも、 「すべて自分にある」という、 そうした思いや考えを、 強く持たなきゃなりません。

常に「気づいて」いるならば、 自分に関わる問題の、 自己処理などは朝めし前。

人をあてにし依存して、 人を頼ってみたところ、 一時凌(しの)ぎのことであり、 自ら解決できないと、 とどのつまりは木阿弥(もくあみ)の、 イタチゴッコのくり返し。

社会の中で自立して、 日々の生活健やかに、 平穏無事に暮らすには、 自己選択や自己管理、 自己責任や自己処理の、 四つの力が要(い)ることは、 わかっていても初めから、 持ってる人はおりません。

大事なことは日頃から、 まじめ、正直、素直さと、 謙虚な気持ちを忘れずに、 「自分育て」をするならば、 四つの力は 自(おの)ずから、 勝手についてくるのです。

自立というのは生(なま)物で、 放って置けば腐ります。

いつも新鮮生き生きと, 保つためには日頃から、 日々の生活顧(かえり)みて、 マンネリズムに陥らず、 おとといよりも昨日より、 今日をしっかり生きるのが、 大事なことと心得る。

「初心不可忘(しょしんふかぼう)」「毎日が、 初日」であると考えて、 肝に銘じて生きてれば、 たとえ失敗しようとも、 落ち込むことはありません。

仮に成功してみても、 おごり高ぶることもなく、 どんな時でもあるがまま、 現実的に受け入れて、  努力を重ねていくことで、 「正しい自立」の生き方が、 そこに生まれてくるのです。

人それぞれの力には、 劣(おと)り優(まさ)りはあるけれど、 非力であるのは仕方ない、 無力であってはいけません。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

「善悪論を捨て損得論」で生きる。

善悪論を捨て、損得論で生きる。

一般社会の善悪の、 判断基準は適当で、 皆(みんな)が良ければ良いとなり、 皆が悪けりゃ悪くなる。

「永田町」の政治家の、 「お家芸」とも言えるべく、 数の論理で決めている。

一方、個人の善悪の、 判断基準は単純で、 好みに合えば良いとなり、 そうでなければ悪くなる。

しかしこうした基準では、 個々の都合で善悪が、 判断されてしまうため、 社会の秩序や良俗は、 機能を失い保たれず、 大いに混乱するでしょう。

そこで「お国」は国民に、 国家の力で善悪の、 判断基準を示すため、 法なるものを制定し、 強制的に善悪の、 判断基準を押しつける。

確かに法の定めには、 善と悪とが明記され、 すべての人は従うが、 何故(なにゆえ)それが善なのか、 どうしてこれが悪なのか、 法律上の善悪の、 根拠を理解する人は、 おそらくそんなにいないはず。

法律だからと鵜呑(うの)みにし、 「なるほどなぁ」と心から、 納得している国民が、 どれほどいるか疑問です。

例えば人を殺すのは、 悪いことだと法は言う。 確かにそれは正しいし、 誰もが法を守るでしょう。

ところで社会の善悪や、 法律上の善悪は、 所詮(しょせん)、「他人」がつくるもの。

それに対して損得は、 自分自身が納得し、 すぐに理解ができるもの。

さらに、加えて言うならば、 本来、人というものは、 得することはやるけれど、 損することはしたくない、 そうした欲求持ってます。

そのためすべての行動は、 善悪論に基づいて、 行動するというよりは、 損得論に基づいて、 人は動いていることを、 理解しないといけません。

ちなみにここでの「損・得」は、 物やお金に対しての、 損か得かのことでなく、 損というのは苦しくて、 つらい、悲しいことを言い、 得というのは快(こころよ)く、 楽であるとか穏やかな、 気分で暮らせることをいう、 感情面や感覚の、 次元の世界を言ってます。

日々の暮らしで事故もなく、 無事に暮らしていけるのは、 一人ひとりが法律を、 守って生きているからで、 そのこと自体に反論や、 異論はないが実際に、 法を守るということの、 「真意」は別にあるのです。

例えば人を殺したり、 物を盗(と)ったりしないのは、 法で定めた善悪の、 決まりの所為(せい)もあるけれど、 罪を犯せば罰として、 拘束されることによる、 苦痛が何より「損」だから、 人は「悪さ」や過ちを、 犯さぬようにするのです。

日々の暮らしで生きがいや、 やりがい感じている人は、 善悪論にこだわらず、 損か得かを見極めて、 自ら納得することを、 自信をもってやってます。

さらに加えて言うならば、 「善悪論」は「建て前」で、 「損得論」は「本音」です。

悩みを抱えている人は、 善悪論を優先し、 損得論をおろそかに、 生きる傾向あるために、 イライラしたり憂うつな、 思いや感情抱きます。

「建て前」論で生きてれば、 「不幸な人生」あるだけで、 何の「得」にもなりません。

「本音」と「建て前」仲良しの、 「自己一致」した 生き方に、 「納得人生」得られます。

いわゆる「良い子」と言う人は、 「本音」隠して「建て前」の、 仮面の演技をするために、 いつも疲れて生きにくい。

悩みを持たない生き方は、 「本音」と「建て前」仲良しの、 関係性から生まれます。

「自己一致」と言う言葉、 時々、耳にするけれど、 つまり、「本音」と「建て前」が、 一致している状態を、 言うのであって幸せな、 生きがいのある人生は、 「自己一致」した生き方が、 与えるものと心得る。

常に冷静沈着に、 善か悪かに惑わずに、 得か損かを考える、心に「ゆとり」を持ちましょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

「疑り深く執念深い」方がいい。

疑り深く、執念深い人がいい。

世間にゃいろんな人がいて、 中でも疑(うたぐ)り深い人、 執念深い人がいる。

疑り深くその上に、 執念深いとくるならば、 おそらく人はためらって、 その身を引いてしまうでしょう。

できれば付き合いなくしたい、 お友だちにはなりたくない、 正直、言えばそのような、 気持ちになるのも無理はない。

ところがどっこい然(さ)に非(あら)ず、 疑り深いというものと、 執念深いというものの、 「中味」を正しく知ったなら、 「鬼に金棒」人生を、 エネルギッシュに逞(たくま)しく、 生きる力が得られます。

人は誰でも過ちや、 しくじり、失敗、へまをして、 日頃、暮らしているけれど、 そうしたことをできるだけ、 なくしていくには適切な、 「判断力」とさらに又、 「分析力」と「持続力」、 三つの力を身につける、 必要性があるのです。

物ごとしっかり分析し、 正しく判断する時は、 疑り深さが必要で、 あるとないのじゃ天と地の。 差があることを知りましょう。

つむじ曲りと呼ばれても、 頑固者だと言われても、 常に冷静沈着に、 物ごと、とことん疑って、 深く掘り下げ考えて、 いろんな角度で見るという、 「疑り深さ」が必要です。

問題意識がない上に、 疑問を持たずにそのままに、 素直に受けていたならば、 分析力や洞察の、 精度は落ちてしまいます。

さらに加えて言うならば、 継続力や持続力、 常に保っていたいなら、 自分が納得するまでは、 決して途中で諦めず、 粘ってすがってしがみつく、 「執念深さ」が必要です。

人から顰蹙(ひんしゅく) 買うような、 疑り深さや執念は、 慎(つつし)まなければならないが、 分析力や持続力、 判断力を身につける、 ための「疑る、執着」は、 深いにこしたことはない。

ちなみに次の人たちに、 分析力や持続力、 判断力を求めても、 無理、無駄、無意味で難儀(なんぎ)かも。

洞察力に関しては、 世間で言われるノー天気。 何の疑問も抱かずに、 すぐに信用する人は、 他人が「こうだ」と言うことを、 鵜呑(うの)み、丸呑み断われない、 言われるままのお人好し。

争うごとを好まずに、 傷つくことを避けたがる、 平和ボケしている人や、 渡る世間に鬼はなし、 疑うことは「悪い」こと、 信じて生きている人の、 「疑り深さ」は 頼りない。

継続力に関しては、 「自分はダメ」と決めつける、 肯定感のない人や、 そのうち何とかなるだろと、 自分自身のことなのに、 主体性がない上に、 呑気(のんき)に構える「傍観者(ぼうかんしゃ)」。

さらに加えて言うならば、 「今更、どうにもならない」と、 始める前からできないと、 やる気なくして諦める、 こうした人を筆頭に  理由はどうあれ何であれ、 鳴かず飛ばずの人生を、 生きてる人が持っている、 「疑り深さ」や「執念の、 深さ」の程度は知れている。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみればごもっとも‼

無断転載、引用はお控え下さい。

「悩む女は化粧して、男は黙って靴を買え!

悩む女は化粧して、男は黙って靴を買え!

生きてく上では悩んだり、 イライラしたりする時や、 何をするにも億劫(おっくう)で、 何もやりたくない時を、 何度も経験するでしょう。

そんな時には無理をせず、 女は化粧を施して、 男は靴を買いましょう。

突飛(とっぴ)な話になりますが、 女は身支度整えて、 化粧をはじめ外見を、 整えることも大事だが、 派手な下着をつけるのも、 リフレッシュを図るには、 大きな効果があるのです。

少し艶あるパンティーは、 女心を刺激して、 腰元(こしもと)すっきり軽くさせ、 ダラダラしていた日常を、 行動的に変えるでしょう。

靴も新調したならば、 履きたい気持ちが生まれます。

靴は「お外(そと)」で履くもので、 お家(うち)の中で履く人は、 ただの一人もいないはず。

会社勤めのサラリーマン、 悩みを抱え就労が、 困難気味の場合には、 靴を新調することで、 外出気分が高まって、 やがて足どり軽くなり、 出歩くことになるでしょう。

一般的に人は皆、 悩みを抱えている時や、 心配事がある時は、気分は憂うつ、億劫で、 すべての生活行動が、 停滞気味になるでしょう。

学校、仕事に家事などの、 やるべきことが停滞し、 そうした時間が長引けば、 新たな問題起きてきて、 不幸な事態を招きます。

悩みというのは人生に、 つきものだから避けられない。 難しいかもしれないが、 大事なことは悩んでも、 日頃の生活行動を、 停滞しないであるがまま、

受け入れながら前向きに、 やるべきことをやるという、 「行動力を持つことが、 大事であると言われます。

しかしそれほど人間は、 器用にできていないから、 靴や艶あるパンティーの、 「暗示」の力をお借りして、 停滞している生活を、 行動的に変えるのです。

普段、行動する時は、 他人に指示をされるとか、 自ら頭で考えて、 行動しているわけですが、 「下着や靴」に至っては、 「行動動機」というものに、 大きな違いがあるのです。

一般的に言うならば、 行動起こす動機には、 主体的な行動と、 指示に従う行動の、 大きくふたつに分かれるが、 「下着や靴」に至っては、 「暗示」の力を利用した、 行動動機を言うのです。

人には暗示を受け入れる、 「被暗示性」なる性質が、 生まれながらに持ってます。

「その気、やる気」というような、 いわゆる「気分」というものは、 暗示によって生まれてる、 「気力」と言って良いでしょう。

「気分」が行動するための、 「その気」を与えてくれるのです。 暗示と言うのは「五感」から、 「刺激」となって大脳に、 常に影響、与えます。

しかも暗示のはたらきは、 指示や意志とは異なって、 無理なくはたらくものだから、 戸惑うことなくあるがまま、 誰でも素直に受け入れる。 

暗示の力は素晴しい。 賢く生きている人は、 暗示の力を常日頃、 有効活用しています。

カーテン、ベッドにテレビなど、 生活備品の場所変えや、 買い替えすれば心身の、 リフレッシュが図れます。

さらに加えて言うならば、 農家の人は鍬(くわ)・鎌を、 漁師の人は釣りざおを、 木こりの人はノコギリを、 カラオケ好きはマイマイク、 学生さんはボールペン、 家庭の主婦はエプロンや、 食器を変えてみればいい。

最後に控える年寄りは、 「杖(つえ)」を変えたらいかがでしょう。 散歩や外出、多くなり、 健康増進図れます。

暗示の力というものは、 人畜無害、副作用、 ないない尽くしの優れもの。

賢い人は常日頃、 暗示の力を侮(あなど)らず、 大いに活用しています。 

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼ 

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