「困った人」というものは。

「困った人」というものは。

「困った人」や「変な人」、 この世にごまんといるけれど、 次に書かれる人たちは、 中でも「成績」優秀な、 「困った」人の仲間です。

「たぶん、おそらく 大丈夫」と、 おかしな返事をする人は、 根は優しくてお人好し。

自分の意見を持ちながら、 自信がないから 曖昧(あいまい)な、 言葉を口にするのです。

自然な流れに逆らって、 波風立てている人は、 自ら拳(こぶし)を振り上げて、 落としどころが見つからず、 右往左往(うおうさおう)をしています。

「ああ・・あの時のあのことね」、 変な相槌(あいづち) 打つ人は、 解ったふりをしているが、 何も解っていない人。

さらに加えて言うならば、 「う~ん別に」と知らん顔。 解っているのに答えない、 自ら白・黒つけられない、 優柔不断で「茶かす」人。

決着している問題を、 むし返しては騒ぐ人。 やぶを突いてヘビを出し、 「寝た子」起こして取り乱す。

上澄(うわず)みばかりを飲みたがり、 努力もしないいる人は、 やること成すこと半人前、 そのくせ文句は一人前、 我がまま気まま三人前。

「困った」人や「変な人」、 この世にごまんといるけれど、 せっかく生まれてきたからにゃ、 こんな人にはくれぐれも、 なりたくもない、なりません。

こうした人の特徴や、 共通点というものは、 些細(ささい)なことや過ぎたこと、 どうにもならないことなどに、 責任感もないくせに、 こだわる心とさらに又、 自分本位に思い込み、 一方的に決めつける、 心を持っているのです。

一見、まともに見えるけど、 いやいやそうではありません。 心のアンテナ錆(さび)ついて、 状況判断するための、 視界も感度も不良品。

自分の世界の中でしか、 通用しない考えや、 論理に基づき生きている。 周りに対する気配りや、 心配りはまるでなし。

自分に関する問題は、 人に依存し丸投げて、 自ら解決する意志や、 責任感はありません。

ないない尽しのその中で、 プライドだけは人一倍、 持っているからたまらない。

自分の好みに合わないと、 一方的に拒否をして、 自分に都合が悪くなりゃ、 その場を逃げ出すことばかり。

そのくせ都合が良いとなりゃ、 見たくもない「面(つら)」出すのです。

どこで習ってきたのやら、 誰の教えか知らないが、 かわすことには才たけて、 自分が変わることがなく、 自分を変える意志もない。

「困った人」や「変な人」、 思いつくまま書いてるが、 これって誰でもいくつかは、 持っているかもしれません。

心当たりがある人は、 今すぐ、直ちに、速やかに、 直した方がいいみたい。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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悩む人は悩みを解決する「答え」を持っている。

悩む人は、悩みを解決する「答え」を持っている

「ああして、そうして、こうすれば、 悩みは解決するだろう」、  悩みを抱えている人は、 悩みを解決するための、 「答え」を自ら持っている。 

そう言われても「ウソだろう」、 「だったら、悩みはしないだろう」、 おそらく誰もがそのように、 思うだろうがそうじゃない。

悩みを抱えている人は、 自ら答えを持ちながら、 解決できずにいるのです。

解決できないその訳は、 「あの時ああしていたならば」、 「もしあのことがなかったら」、 「あんなことさえしなければ」、 過去の出来事、思い出し、 「あの時、あのこと、あの人が」と、 悔やむ気持ちがあるために、 自ら持ってる解決の、 「答え」を出せずにいるのです。

さらに加えて言うならば、 口では「何とかしなければ」、 「今のままではいけない」と、 言ってはいるが一方で、 「どうせ今さら手遅れだ」、 「何て自分はダメなの」と、 自ら否定し嫌悪する。

そのため気力を失って、 自信が持てずに鬱々(うつうつ)と、 悩み続けているのです。

確かに、悩みの解決を、 図るためには相当の、 心的パワーを要します。

時に、長期の「ひきこもり」、 「ニート」と言われる人たちは、「何とかしたい」というよりは、 「このまま何もしたくない」、 「やりたくない」という思い、 つまり、「心の目的」が、 「先」にあるため解決の、 「目先の一歩」を踏み出さず、 悩み続けているのです。

「解決しない」理由には、 「悩み疲れて」いるためか、 「解決しない」か「したくない」、 ふたつの思いがあるのです

いずれも悩みの解決を、 図るためには欠かせない、 「あるがままに受け入れる」、 その段階の二歩前で、 無意味な足踏みしています

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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人つき合いとはこんなもの。

人つき合いとはこんなもの。

いろんな人がいる中で、 他人の空似(そらに)と言われても、 「同一人」ではありません。

この世は「他人」の集まりで、 顔も容姿も違うように、 性格、気質に価値観や、 好みがそれぞれ違います。

そのため人との付き合いは、 伺い合って折り合って、 折り合えなければ「さよなら」と、 距離をとってもいいのです。

つまり、人との関係は、 「お互いさま」の関係で、つき合わなければなりません。

も少し詳しく言うならば、 自分の意見を言う時は、 命令したり押し付ける、 話をしてはいけません。 話の語尾には「どう思う、 如何でしょうか」伺いを、 立てる話をするのです。

話の結果が「そうだね」と、 相手が納得したならば、 互いに折り合い反対に、 相手が「そうは思わない」、 拒否の思いがある時は、 「お互いさま」と割り切って、 すっきりさっぱり別れましょう。

ところで、まじめな人間は、 「仲良しこよし」の関係が、 人つき合いの基本だと、 思い込んでいるために、 自分を犠牲にしてまでも、 人つき合いを完璧に、 取り結ぼうとするのです。

人つき合いで「生きにくさ」、 「関わりづらさ」を持つ人は、 こうした「つき合い」しています。

人つき合いの良い人は、 互いの「好み」を尊重し、 互いに分け合い喰っている。

人つき合いが下手な人。 相手の「好み」を喰いすぎて、 腹痛(はらいた)起こしている人か、 自分の「好み」を押しつけて、 ありがた迷惑かけてます。

人つき合いというものは、 「お互いさま」の感覚で、 互譲の精神仲人(なこうど)に、 関わることが大事です。

人とトラブル原因は、 相手の「課題」に配慮せず、 入り込むとか反対に、 自分の「課題」に同様に、 入り込まれることにより、 起こると言われているために、 着かず離れず干渉も、 無視もしないという距離を、 保たなければなりません。

生きてく上で避けられない、 人つ付き合いを円滑に、 保つためには唯一つ、 誰の課題かそのことを、 しっかり認識した上で、 関わらなければなりません。

ちなみに「課題」というものは、 誰が成すべきことなのか、 誰の問題なのかなど、 「課題の分離」ををした上で、  自分の課題の範囲内、 誠意を持ってつき合えば、 トラブルことはないでしょう。

さらに加えて言うならば、 人とのトラブル避けながら、 平穏無事(へいおんぶじ)に暮らすには、 例え意見が違っても、互いに尊重するという、 「お互いさま」の「緩衝帯(かんしょうたい)」、 是非とも備えて置きましょう。

そうか、なるほどそのとおり、 言われてみれば、ごもっとも‼

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