子育て教育、その意味は。

子どもを育てるその「意味」と、 子どもを育てる「育て方」「関わり方」というものが、 解らなければ子育ては、 容易なことではありません。大変苦労が要るものと、 覚悟をしなけりゃなりません。

子どもを育てるその「意味」は、 未熟で何もわからない、 子どもが社会を健やかに、 生きてくために必要な、「気力」「知力」に「体力」を、 養うことにあるのです。

中でも「気力」というものは、 車で言えば「エンジンの、 役目」を果たす大切な、 力であってストレスに、 打ち克ち逆境、困難を、 へこたれないで乗り越える、 「折れない心」の元になる、 「力」であると言えましょう。

も少し詳しく言うならば、 「折れない心」は自らを、 「かけがえのない存在」と、 思う「自尊の感情」と、 自分に対する「可能性」、 常に信じて期待する、 「自己効力感」にさらに又、 自分は役に立つという、 「有用感」を持つことで、 身につくものであるのです。 つまり、自信の元である、 自己肯定観を育てます。

いくら頭が利口でも、 飛び、跳ね、走るが得意でも、 「よわ気」で「やる気」がなかったら、 途中で「エンスト」するだけで、 人生、ムダ花「枯れすすき」、 その後の人生、うつうつと、 暮らしていくしかないのです。

現に世間にゃ「五月病」、 就労困難、出社拒否、 余儀なくされて不幸にも、 中途でリタイアする人の、 多さがすべてを語ります。

学生時代は16年‼、 その後は誰もが「社会人」、 すべての「子育て教育」の、 最終ゴールにあるものは、 子どもが元気で健やかに、 社会を生きていくための、 力を与えてやることで、 そのため親には適切な、 「関わり方」や「育て方」、 一生懸命、学ぶという、 義務と使命があるのです。

そういう意味で考えりゃ、 親子がともに学び合う、 時間が「子育て教育」の、 時間なんだとわかるはず。

「スマホ片手」の子育てや、 親の都合の善し悪しで、 「気分任せ」の子育ては、 子どもにとっては最大の、 不幸であると言えましょう。

世間りゃいろんな親がいて、 子どもが「子ども」を生むような、 未熟な親に育てられ、 育児放棄や虐待で、 生死の境で生きている、 子どももいれば反対に、 過保護に加え過干渉、 常に子どもを制約し、 身動きできない状況で、 苦しむ子どももいるのです。

子どもにとって恐ろしい、 親というのは言葉では、 常に「理解と愛情」の、 仮面をつけて、ぬけぬけと、 「あなたのためよ」と言いながら、 いつの間にやら、じわじわと、 自分の好みや価値観を、 一方的に押し付ける、 我欲が伴う「育て方」

さらに加えて言うならば、 「育ち」は良くても自らの、 「自分育て」が悪すぎて、 やんちゃをやってきた親の、 「気分任せ」の「育て方」。

いずれも、甲乙つけがたい、 子どもにとっては最悪の、 「育て方」だと言えるでしょう。

こうした家庭の子育てが、 三面記事に載るような、 事態にならないことだけを、 お祈りするしかありません。

本来、子育て教育は、 子どもの利益を中心に、 施すものであるために、子どもの行動全般を、「良い」とか「悪い」と決めつけず、 子どもにとって「損なのか」、 そてとも「得なことなのか」、 そうした視点で冷静に、 判断しなけりゃなりません。

「良い」「悪い」という判断は、 他人が決めるものであり、 「損か得か」の判断は、 子ども自身が解るもの。

さらに加えて言うならば、 子どもと会話をする時は、 「母は、○○、▽▽と、 思うがあなたは『どう思う』」と、 「伺う会話」を心掛け、 話の語尾に「どう思う?」、 一言、添えて終わります。

もしもその時、子どもから、 「自分はそうは思わない」、 期待外れの返事でも、 あるがままに受け入れて、 「そうか、なるほどわかったよ」、 その一言で終わります。

ちなみに、「伺う会話」には、「気づき」を促す意味があり、気づけば納得するために、 次に「やる気やその気」など、 「気力」が湧いてくるために、 「行動力」が生まれます。

「気づき」→「気力」→「行動」は、 切っても切れない仲良しの、 「三兄弟」であることを、 常に覚えておくのです。

子どもを納得させるため、 くどくど説得してみたり、 叱責するのは逆効果。仮に子どもが拒否しても、 親の思いは十分に、 届いているからご安心。

受容、共感、傾聴は、 「伺う会話」で生まれます。

「褒めて育てる」子育てや、 できないことを支援する、 「甘えさせる」子育てが、 推奨されるその訳は、 いずれも子どもの「肯定観」、 育むためのものである。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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