心の病にかかる人。

心の病にかかる人。

常にまじめで几帳面。 完全、完璧心気的、 気になりだしたら 止まらない。

100点取るか0点か、 全てか無かの両極端。 愚痴(ぐち)や弱音は吐きにくく、 我慢、引っ込み、断れない。

不安、緊張、敏感で、 プライド高く、根は頑固。  「もしかしたら・・」が「そうである」、こだわり強く思い込む、  すべき」「あるべき」「ねばならない」、 思考はいつもワンパターン。

自分の評価が低すぎて、 否定と自責をくり返す。 人は「いい子(人)」と言うけれど、 本音隠して建前の、 仮面の演技に疲れ切る。 いつも憂うつ生きにくい、 心の病にかかる人。

人も羨(うらや)む性格も、 使い勝手が下手ならば、 自分を悩ます種になる。「三つ子の魂(たましい) 百までも」、 「持った性分死ぬまで」と 性格、気質は変わらぬが、 「馬鹿とハサミは 使いよう」、 日々の暮らしや生活で、上手に使いこなせれば、 自分を生かす糧(かて)になる。

ところで強迫神経症、 こうあるべきにこうすべき、 「べき」にこだわり続けます。

手洗い、歯磨き入浴や、 鍵閉め、戸締り火の始末、 何度も何度も確かめる。 トイレの場所が気になって、 各駅毎に下車をする。

そのほか物が捨てられず、 貯め込み集めることもある。

「べき」に根拠がないことや、 無意味とわかっていながらも、 こだわり続けていなければ、 心が不安でたまらない。  こだわり続けたそのあとは、 「何て自分はダメなの」と 自ら否定し嫌悪する。

さらに自分を卑下したり、 自責の念に駆(か)られたり、「こんな自分は生きてても、 価値などない」と自罰する。

さらに加えて言うならば、 対人不安や恐怖症。 特に美人じゃないけれど、 自分の容姿が醜(みにく)いと、 「醜態(しゅうたい)恐怖」を抱いたり、 人の視線が気になって、 不安なあまり動けない。

さらに加えて言うならば、 高い所や狭い場所、 鋭く尖(とが)ったものなどに、 極度の恐怖を抱くという、 いわゆる不安恐怖症。

心の病の人たちに、 共通している特徴は、 不安でないのに不安がり、 怖くもないの 怖いと言う「認知にゆがみ」が あるのです。

ゆがみをなくす方法は、 逆らわないでさらけだす、 「認知行動療法」の、 「曝露(ばくろ)療法」効果的。

たとえ不安や恐怖でも、 あるがままに受け入れて、 慣れて馴染んでいくうちに、 ゆがみは自然に治るもの。 不安や恐怖があるからと、 何もしないでいることが、 一番悪いことである。

不安や恐怖があるからと、 何もしないでいたならば、 自然増殖繰り返す、 厄介者であるゆえに、 仮に不安や恐怖でも、 あるがままに受け入れて、 やるべきことをやるのです。

「安心しなさい大丈夫」。 不安や恐怖で死んだ人、 知る限りではおりません。

心の病という「奴」は、 心にホントの原因が、 あって発症しますから、 ものの見方や捉え方、 考え方を 変えなけりゃ、 一時的には治っても、 とどのつまりは再発を、 くり返してはその度に、 重度を増していくのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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あらゆる「答え」は過去のある

あらゆる「答え」は過去にある。

人生は、過去・現在・未来へと、 続く時間であるけれど、生きるというのは現在の、 「今」の時間を言うのです。

そして「今」ある時間とは、 一秒過ぎれば過去という、 時間の一部になるのです。

ところで悩みや問題を、 解決しようとあれこれと、模索をするけどほとんどは、 正しい答えというものに、 めぐり合うとは限らない。

何故なら「これからどうしよう」 「今後、どうすりや良いのだろう」多くの人が考える、 「これから、今後」というものは、 「未来」を表す言葉です。

未来というのは曖昧で、 やってみなけりゃわからない。それより悩みや問題の、 起きた理由を知ることが、手っ取り早い方法で、 確かな答えにめぐり合う。

過去がすべてを知っている。 悩みや問題解決の、 正しい答えというものは、 過去の時間にあるのです。

肥満を解消するために、 痩せるためにはどうしたら、良いかを模索するよりは、 過去の太ったきっかけや、 経緯を知れば良いことで、 あらゆる物ごと出来事の、 解決策というものは、 過去の時間にあるのです。

仮に肥満であるならば、 空腹任せに好きなもの、 腹いっぱいに食べたとか、 運動不足であったとか、 はたまた、心や病んでいて、 過食を余儀なくされたなど、 肥満になって当然の、 過去の経緯があるのです。

肥満を解消したければ、 過去の経緯を省みて、 肥満にならない生活に、 変えていくしかありません。

たった一度の人生を、 夢あるものにしたければ、 「反省猿」も及ばない、 過去から学ぶ生き方を、 実践すれば良いのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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「ゆとりとゆるみ」は紙一重。

「ゆとり」、「ゆとり」と 人は言う。 「ゆとり」を持って 生きろと言う。

確かに「ゆとり」は必要で、 心と身体の健康を、 保つためには欠かせない、 「栄養源」と言えましょう。

しかし、「ゆとり」の解釈を、 自分の都合で変えたなら、 「ゆるみ」「たるみ」の元になる。

山あり谷ある人生の、 あらゆる場面で速やかに、 無理なく、無駄なく、適切に、 適応するには、何よりも、 「ゆとり」がなければなりません。

一般的にいうならば、 不平不満がある時や、 不安、緊張、焦りなど、 心が動揺する時に、 「ゆとり」をなくしてしまいます。

さらに加えて言うならば、 自分の世界の中でしか、 通用しない考えに、 こだわり続けてとらわれて、 思い込んでは決めつける、 そうした思いでいる時も、 心に「ゆとり」は持てません。

心の「ゆとり」というものは、 常に、冷静 沈着に、 楽観的かつ柔軟な、 思考で物ごと考える、 ところに生まれてくるのです。

「ゆとり」があるということは、 あらゆる場面や状況に、 適宜、対応できるため、 平和に暮らして行けるでしょう。

「ゆとり」というのはストレスの、 心的圧力、和らげる、 「緩衝帯」である上に、 逆境、困難乗り越える、 力を補充するための、 「安全地帯」であるのです。

「ゆとり」の意味を履き違え、 「ゆるみ、たるみ」にならぬよう、 「ゆとり」の糸をピンと張り、 正しく機能するために、 常に点検、調整を、 怠ることのないように。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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子育て教育、その意味は。

子どもを育てるその「意味」と、 子どもを育てる「育て方」「関わり方」というものが、 解らなければ子育ては、 容易なことではありません。大変苦労が要るものと、 覚悟をしなけりゃなりません。

子どもを育てるその「意味」は、 未熟で何もわからない、 子どもが社会を健やかに、 生きてくために必要な、「気力」「知力」に「体力」を、 養うことにあるのです。

中でも「気力」というものは、 車で言えば「エンジンの、 役目」を果たす大切な、 力であってストレスに、 打ち克ち逆境、困難を、 へこたれないで乗り越える、 「折れない心」の元になる、 「力」であると言えましょう。

も少し詳しく言うならば、 「折れない心」は自らを、 「かけがえのない存在」と、 思う「自尊の感情」と、 自分に対する「可能性」、 常に信じて期待する、 「自己効力感」にさらに又、 自分は役に立つという、 「有用感」を持つことで、 身につくものであるのです。 つまり、自信の元である、 自己肯定観を育てます。

いくら頭が利口でも、 飛び、跳ね、走るが得意でも、 「よわ気」で「やる気」がなかったら、 途中で「エンスト」するだけで、 人生、ムダ花「枯れすすき」、 その後の人生、うつうつと、 暮らしていくしかないのです。

現に世間にゃ「五月病」、 就労困難、出社拒否、 余儀なくされて不幸にも、 中途でリタイアする人の、 多さがすべてを語ります。

学生時代は16年‼、 その後は誰もが「社会人」、 すべての「子育て教育」の、 最終ゴールにあるものは、 子どもが元気で健やかに、 社会を生きていくための、 力を与えてやることで、 そのため親には適切な、 「関わり方」や「育て方」、 一生懸命、学ぶという、 義務と使命があるのです。

そういう意味で考えりゃ、 親子がともに学び合う、 時間が「子育て教育」の、 時間なんだとわかるはず。

「スマホ片手」の子育てや、 親の都合の善し悪しで、 「気分任せ」の子育ては、 子どもにとっては最大の、 不幸であると言えましょう。

世間りゃいろんな親がいて、 子どもが「子ども」を生むような、 未熟な親に育てられ、 育児放棄や虐待で、 生死の境で生きている、 子どももいれば反対に、 過保護に加え過干渉、 常に子どもを制約し、 身動きできない状況で、 苦しむ子どももいるのです。

子どもにとって恐ろしい、 親というのは言葉では、 常に「理解と愛情」の、 仮面をつけて、ぬけぬけと、 「あなたのためよ」と言いながら、 いつの間にやら、じわじわと、 自分の好みや価値観を、 一方的に押し付ける、 我欲が伴う「育て方」

さらに加えて言うならば、 「育ち」は良くても自らの、 「自分育て」が悪すぎて、 やんちゃをやってきた親の、 「気分任せ」の「育て方」。

いずれも、甲乙つけがたい、 子どもにとっては最悪の、 「育て方」だと言えるでしょう。

こうした家庭の子育てが、 三面記事に載るような、 事態にならないことだけを、 お祈りするしかありません。

本来、子育て教育は、 子どもの利益を中心に、 施すものであるために、子どもの行動全般を、「良い」とか「悪い」と決めつけず、 子どもにとって「損なのか」、 そてとも「得なことなのか」、 そうした視点で冷静に、 判断しなけりゃなりません。

「良い」「悪い」という判断は、 他人が決めるものであり、 「損か得か」の判断は、 子ども自身が解るもの。

さらに加えて言うならば、 子どもと会話をする時は、 「母は、○○、▽▽と、 思うがあなたは『どう思う』」と、 「伺う会話」を心掛け、 話の語尾に「どう思う?」、 一言、添えて終わります。

もしもその時、子どもから、 「自分はそうは思わない」、 期待外れの返事でも、 あるがままに受け入れて、 「そうか、なるほどわかったよ」、 その一言で終わります。

ちなみに、「伺う会話」には、「気づき」を促す意味があり、気づけば納得するために、 次に「やる気やその気」など、 「気力」が湧いてくるために、 「行動力」が生まれます。

「気づき」→「気力」→「行動」は、 切っても切れない仲良しの、 「三兄弟」であることを、 常に覚えておくのです。

子どもを納得させるため、 くどくど説得してみたり、 叱責するのは逆効果。仮に子どもが拒否しても、 親の思いは十分に、 届いているからご安心。

受容、共感、傾聴は、 「伺う会話」で生まれます。

「褒めて育てる」子育てや、 できないことを支援する、 「甘えさせる」子育てが、 推奨されるその訳は、 いずれも子どもの「肯定観」、 育むためのものである。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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奉仕と利益の関係は。

「奉仕」の先の「利益」とは、 どんな「利益」があるのだろう。

玉子が先か鶏の、 どちらが先かは知らないが、 多くの人に支えられ、 繫盛している店を持つ、 商売人というものは、 「利益」は後でその前に、 「奉仕」が先と考える。

中には「利益」を優先し、 儲かることだけ考えて、「奉仕」いわゆるサービスは、 もってのほかと考える、 商売人も見かけるが、 そうした店というものは、 客はまばらで閑散と、 閑古鳥だけ飛んでいる。

「奉仕→利益」と捉えるか、 「利益→奉仕」と捉えるか、 後先(あとさき)違いの話だが、 「奉仕」を優先することで、 後で「利益」を得るという、 考え方が大事です。

も少し、詳しく言うならば、 奉仕を先に行えば、 利益は計算しなくても、  自ずと後からついてくる。

「奉仕→利益」 の考えは、 人が生きるということの、 基本であると心得る。

生きる基本は「奉仕」です。 親が子どもを大切に、育てることも奉仕なら、 農家の人が新鮮な、 農作物を作るのも、 使い勝手の良いものを、 昼夜を問わず考えて、 生産している人たちも、 すべては世のため、人のため、 「奉仕」の心に支えられ、 「奉仕」を実践するために、 努力を重ねているのです。

ところで、人からあてにされ、 頼りにされて応えたり、 困った人がいたならば、 力を貸してあげるのも、 「奉仕」であってそのことで、 「役立つ自分」の存在が、 実感できるわけだから、 正に人生、最高の、 「利益」を得たと言えるでしょう。

「自己有用感」というものは、 「奉仕」を続けるその中で、自分は「役立つ存在」と、 感謝や称賛される時、 はじめて感じるものである。

さらに加えて言うならば、 自分を尊ぶ感情や、 常に自分に期待する、 「効力感」が持てるなら、 自信につながる「肯定観」、 望まなくても得られます。

「生きがい」「やりがい」「幸せ」は、 「自分が存在してる」という、実感なければ叶わない。

ちなみに人が行き来する、 場所を表す「出入口」、 その名の由来は知らないが、 はじめに「出す」から「入る」という、 そう言う意味があるみたい。

言葉遊びじゃないけれど、 鳴かず飛ばず人たちが、 入って出すのが「入出口」、 我欲の強い人たちが、 とにかく好む「入入口」、 心も財布もしなびれた、 貧乏人の「出出口」の、 三つの「口」は絶対に、通りたくない「口」である。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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座禅の「禪」というものは。

☆座禅の「禅」というものは。

座禅の禅(禪)という文字は、 「」を「示す」と書くように、単純、なおかつ簡単な、 行動続ける大事さを、 座禅を通して教えます。

日々の暮らしで単純に、 くり返している行動は、吸って吐いてはまた吸って、 死ぬまで「続ける」呼吸です。

呼吸が止まればどうなるか、 すべての人は死ぬでしょう。

そういう意味で考えりゃ、 日々の暮らしや生活で、「続ける」ことの大事さを、 呼吸は教えているのです。

さらに加えて言うならば、 起床、飲食、排泄(はいせつ)や、睡眠という基本的、 生活リズムが崩れたら、仕事をしようが遊ぼうが、 何もしないでいようとも、すべての生活成り立たず、 生きてくことはできません。

ところで禅の高僧は、 座禅を通してもう既に、「無我の境地」や「無」の世界、 すべてを極めているはずと、我々、世間の凡人は、 思っているけど現実は、決してそうではありません。

代々続く禅寺で、 禅の修行を積む僧は、「悩み」の元の煩悩(ぼんのう)が、 存在しない「無の世界」、「無我の境地」を悟(さと)るため、 厳しい修行をしてるけど、悟るというのは困難で、 無理だと解っているみたい。

それでも決して諦めず、 修行を続けるその訳は、無理であろうと困難な、 場面であっても耐えながら、目的達成するために、 「努力」を重ねる姿こそ、 禅の教えであることを、 知っているから一心に、 厳しい修行を続けます。

継続するは力なり」。 禅の教えというものは、例えどんなにつらくても、 あるがままに受け入れて、幸せ求めていくための、 「努力」を続けていくことが、「人が生きる」ということの、 基本であると教えます。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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人生は「足し算」の連続‼

人生の時間というのは、「足し算」の連続なんだと心得る。

人生は「百人百様」それぞれに、 「足して引いたり、掛けたり割って」生きている。

しかし、まともな人生は、 まじめ、正直、素直さに、謙虚さ忘れずひたむきに、 「目先の一歩」の行動を、「足して」行かなきゃ、 なりません。

プラス思考が良いからと、 プラスの「足し算」重ねると、マンネリ思考に陥って、 危機や危険に気づかずに、いつか「墓穴」を掘るでしょう。

しかし、悩んでいる時は、 「たら、れば」思考に支配され、「ああしていれば、こうしたら」、 「こんなはずではなかった」と、過去の時間を「引く」ような、 後悔、愚痴を繰り返し、 消極的な生活を、余儀なくされているだけに、 状況変えていくために、行動起こす「足し算」の、 考え方を身につけて、日々の暮らしや生活を、 変えていくしかありません。

料理を味付けする際に、 甘さ辛さを変えたけりゃ、 水や砂糖を足すように、 変えるためには「足す」以外、 方法手段はないのです。

「足してもダメなら、足すものを、 変えて、も一度、足してみな!」「それでもダメなら、また足しな‼」・・・ってか。

足さない限り状況は、 いつまでたっても変わらない。

「行動」起こす「足し算」の 重ね着、上書きする中に輝く未来があるのです。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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言い訳する「訳」どんなわけ?

「言い訳」する「訳」、どんな「わけ」?

「突然、雨が降ったから、 Bまで行けなかった」とか、「やろうと思って始めたが、 途中で機械が故障して、 残念ながら諦めた」、一見、まともな話でも、 鵜呑みにしてはいけません。

Aの原因あったから、 Bできない」と言う人の、 最もらしい「言い訳」に、信憑性(しんぴょうせい)はありません。

もともと心の根っこには、 「やりたくない」とか「したくない」、そうした「心の目的」が、 先にあるため言い訳や、論理のすり替えするのです。

ほんとに「やりたい」「したい」という、 強い思いがあるならば、どんな理由があろうとも、 途中でやめたりしないもの。

いろんな方法、模索して、 やるべきことを果たすでしょう。

心理学者のアドラーは 、これを「見かけの因果律」、「原因論」と「目的論」、 その名で詳しく言ってます。

さらに加えて言うならば、 イヤな思いはしたくない 叱責、注意は受けたくない、人の意見は聞きたくない、まして自分が傷ついて、苦しい思いはしたくない。

「ない、ない」づくしのその中で、 「自分がよければそれでよい」、そのことだけを考えて、 何かにつけて言い訳や、論理のすり替えするのです。

いやはや脳というものは、 自分の保身のためならば、その場しのぎの言い訳や、 論理のすり替えするという、大した技(わざ)を持つのです。

生きてく上で「自己防衛」、 「自己保身」を図るのは、確かに大事であるけれど、 論理をすり替え、言い訳を、してまで「自分を守る」のは、 愚かなことじゃないですか。

論理のすり替え言い訳を、 なくすためには常日頃、何かを始めるその前に、 本気でやりたいことなのかできればやりたくないことか、 自分の心に向き合って、確認するといいみたい。

ちなみに、論理のすり替えや、 言い訳グセがついている、人というのは、「でも、だけど、 だって、どうせ」と言う言葉、好んで使うそのために、 すぐに見分けがつくでしょう。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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やぶのつぶやき決定版‼人が悩むということは。

人が「悩む」ということは、 「あの時ああしていたならば」、「こんなわけではなかった」と、 愚痴を吐いたり、悔恨の、思いにこだわり、とらわれる。

さらに加えて言うならば、 「この状態が続いたら」、「この先、一体どうなるの」、 不安な思いが湧き上がり、「きっと、おそらくそうなる」と、 自分勝手に思い込み、一方的に決めつける。

悩みを抱えている人の、 共通パターンというものは、「不満」な思いや感情に、 こだわり続けてとらわれて、「不安」な思いや感情を、 「もしかしたらそうなる」と、思い込んでは決めつける。

悩みを抱えている時は、 常に気分は憂うつで、起きる時間に起きられず、 食べる時間に食べられず、やるべきことができなくて、 日々の生活行動が、 停滞、後退するのです。

子どもであれば不登校や、 大人は就労困難に、陥り解雇をされるとか、 子どもは退学処分など、新たな悩みが加わって、 苦しむことになるのです。

そして最後は「無気力」や、 極度の精神不安から、「医療の援助」を受けるとか、 「反社会的行動」を、余儀なくされてしまうなど、 三つのリスクを負いながら、生きて行くしかありません。

ならば、「悩み」を速やかに、 解決していく方法を、「悩み」と向き合い半世紀、 その経験を基にして、不肖、「やぶ」のひとりごと、 つぶやくことに致しましょう。

そもそも「悩み」というものは、 生きるためには必要で、なくすものではありません。なくなるものでもありません。

むしろ成長するために、 悩みは欠かせぬ「必需品」。夢や希望を叶えたり、 幸せ求めて生きるには、あれやこれやと模索して、 試行錯誤をくり返し、悩まなければなりません。

「悩み」があるから人々は、 幸せつかんで朗らかな、 明るい日々が送れます。

「悩み」と言うのは不可能を、 可能にできる「優(すぐ)れもの」、明るい未来を切り開く、 「心の刃(やいば)」になるのです。

「そのうち何とかなるだろう」,「どうせ、今さら何になる」、平和ボケした考えで、 のんべんだらりと生きていりゃ、やがて不幸を招き入れ、 侘しい日々を送るでしょう。 

いわゆる「悩み」の中味には、 プラスの意味や価値を持ち、活力与えるポジティブな、 悩みもあれば反対に、停滞招くネガティブな、 ふたつの悩みがありまして、問題なのはマイナスの、 意味や価値持つネガティブな、悩みを抱えてウダウダと、 生きてちゃダメと言うのです。

幸、不幸の分かれ道、 分岐にあるのは「悩み方」、 どちらを選んで進むかは、 「あなた」の希望でご自由に、 どちらの道も選べます。

ところで悩みを速やかに、 解決するには「あるがまま、受け入れる」という究極の、 「受容の心」が欠かせません。

「たら、れば」思考で悔やんでも、 すべての物ごと出来事は、「起こるべくして起こるもの」、 「成るべくして成った」という、当然観に基づいた、 考え方や捉え方、 受け止め方が必要です。

さらに加えて言うならば、 行動起こしていくために、ピンチはチャンスと言うように、 両面観をはたらかせ、その時々の状況の、 中からプラスの意味や価値、見出す努力をしたならば、 「目先の一歩」を歩むのに、大きな力になるでしょう。

そして最後は「自信」です。おっかなびっくり生きてても、 何の役にも立ちません。

自信というのは字の如く、 自分を信頼することで、自分の持ってる可能性、 ひたすら信じて期待する。

さらに自分に対しては、 「かけがえのない存在」と、自分を大事にするならば、 どんな時でもくじけずに、「目先の一歩」は末永く、 歩み続けることでしょう。 

当然観に両面観、 肯定観の「三つ矢」、束ねて生きていくならば、 現代社会のストレスに、打ち克ち、逆境乗り越えて、どんな過酷な困難にも、へこたれないで生きて行く、 「折れない心」が育まれ、心的挫折を予防する、 「知的武装」が叶うでしょう。

人が生きるということは、 たとえどんなに辛くても、あるがままに受け入れて、 その時、「できる行動」を、続けることで状況を、 変えていく時間の連続が、 人生なんだと心得る。

そうか、なるほどそのとおり、言われてみれば、ごもっとも‼

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